今日は何の日

「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    カテゴリ: 日記

    1903822日、「東京に初の路面電車の日」

    1903年(明治36年)822日、東京電車鉄道が、新橋と品川の間に路面電車が開通しました。

    ・東京で初めて路面電車が走ったことから「路面電車の日」は制定されました。後の都電の基礎になりました。

    ・なお、路面電車は、車掌が、運行に必要な合図として、鐘を鳴らすことから、「チンチン電車と呼ばれました。

    ・それまで、市民の交通手段は、馬車鉄道でしたが、技術の進歩により、電化されていきました。

    ・因みに、日本発の路面電車は、189054日に、東京上野公園で開催中だった内国勧業博覧会の会場内でした。

    ・その後、189521日に、日本初の一般道路の上を走る路面電車が登場しました。

    ・これが、京都電気鉄道の小路東洞院と伏見京橋間の路面電車でした。

    ・東京都電車は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例及び東京都電車条例により東京都交通局が経営する路面電車です。

    ・前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設されました。

    ・その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電、1943年の東京都制施行によって都電となりました。

    ・都電は、1972年までに全線廃止されることになりましたが、1974年に荒川線の恒久的な存続が決定し今日に至っています。

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    1964821日、「献血の日」

    1964年(昭和39年)821日、日本政府は「輸血用血液を献血により確保する体制を確立」すると閣議決定しました。このことから、毎年821日は『献血の日』とされています。

    ・この日の2年前、売血による輸血から発生した輸血後肝炎が社会問題となっていました。この日を境に、献血する人が、飛躍的に増加しました。

    ・昭和39年当時は未だ売血が盛んな時期であり、同年の3月には駐日アメリカ大使のライシャワー氏が輸血により肝炎感染をしてしまったことや、全国の学生が売血制度の追放運動を展開したことなどがきっかけとなり、閣議決定につながっています。

    ・昭和38年にはわずか2%程度でしかなかった献血由来の輸血用血液が、その後10年間で国内自給達成となったのは、政府をも動かした学生などを中心とした全国的な働きかけがあったからこそだと考えられます。

    ・現在、日本国内では、1日あたり約3,000人の患者さんが輸血を受けていると言われています。輸血に使用する血液は、まだ人工的に造ることができず、長期保存することもできません。

    ・また、患者さんによっては大量の輸血を必要とする場合があります。このため、輸血に必要な血液を確保するためには、一時期に偏ることなく、1日あたり約13,000人の方に献血にご協力いただく必要があります。

    ・日本国内では、少子高齢化等の影響により、主に輸血を必要とする高齢者層が増加し、若い世代が減少しています。

    1030代の献血協力者数はこの10年間で、約98万人35%も減少しており、少子高齢化が今後ますます進んでいくと、血液の安定供給に支障をきたす恐れがあります。

    ・今後も患者さんに血液を安定的に届けるためには、今まで以上に若い世代の献血へのご理解とご協力が必要となります。

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    1931820日、「交通信号設置の日」

    1931(昭和6)年の820日、東京銀座・尾張町交差点や京橋交差点など34箇所に、日本で初めて赤・黄・青の三色の自動式の交通信号機が設置されました。

    ・向かって右から赤・黄・青ですが、この3色が使われたのは光の波長が長く、見やすい色だからです。

    ・また、信号の青色は正確には青緑色です。なぜかと言うと、人間の目には緑色を感じる細胞が多く、緑に近い色をより強く認識できるからです。

    ・日本では道路の安全と円滑を守り、また交通公害などの障害を防ぐために交通信号機が設置されました。主に車両用と歩行者用に分けられますが、必要に応じて自転車用や路面電車用のものも設置されました。その後、電球式からLED式への光源の変更を経て現在に至っています。

    ・交通信号機には制御器や信号柱などが付属しており、制御器で予め定められたパラメータに従って自動的に信号機の表示を変えています。

    ・日常生活で当たり前となっている信号機ですが、横向きの信号機は、「青・黄・赤」という順番で並んでいて、信号機で1番重要であり見えてなければならない色は赤色です。この赤色の信号を見落とさないために右側に赤が配置されています。

    ・この赤色の信号を見落とさないために右側に赤が配置されているのですが、これは日本の道路が左側通行になっている事が関係しています。

    ・左側を走行している時に、左側に植えてある街路樹の枝や葉が信号を隠してしまうことがあるのですが、赤色を右側に配置しておけば街路樹からの距離があって赤色信号が隠れる可能性が低くなるためです。

    ・因みに、信号機で、道路交通を整備するための「灯火式信号機」が世界で初めて設置されたのは、1868年(明治元)年、英国のロンドンです。この時の装置は,緑色・赤色の2色の灯器で、光源としてはガスを使用していました。

    ・さらに、電気を利用した世界初の「電気式信号機」は、1918(大正7)年に、米国のニューヨーク市5番街に設置されました。

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    1989819日、「バイクの日」

    1989(平成元)年の819日、オートバイクによる交通事故の増加を防ぐため、日本政府総務省(現在 内閣府)の交通安全対策本部が制定した記念日です。

    ・全国自治体の交通安全対策室や地元警察は、この819日を中心に、二輪車の安全運転講習会等を展開しています。

    ・さらに、二輪車の楽しさ、利便性、有用性などバイクライフの素晴らしさを、より多くの皆様にご理解していただくために、毎年79月の3ヶ月間をバイク月間として、 20007月にスタートしました。以来、全国各地で数多くの活動を展開しています

    ・日付は、バイク(819)の語呂合わせから、特に、若者に対するバイクの安全運転教育を積極的に展開する日と定めています。

    ・交通事故死亡者数は、いっこうに減りそうにありません。その大きな要因の一つとして、若者を中心とする二輪車乗車中の死亡事故が、発生していることが挙げられます。

    ・そこで、1990年から、内閣府は、日本自動車工業会と共催で、若者に対するバイクの安全運転教育を積極的に展開しています。

    ・同様に二輪車関連団体は二輪車の交通安全啓発や有用性を訴求するイベントを展開しています。

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    1915818日、「高校野球記念日」

    1915(大正4)年の818日、全国高等学校野球選手権大会の前身である第1回全国中等学校優勝野球大会の開会式が大阪の豊中球場で行われたことを記念して設けられました。

    ・全国73校から地区予選を勝ち上がってきた10校が参加しました。

    ・決勝戦は、京都二中と秋田中学の両校の戦いとなり、21で、京都二中が優勝を飾りました。

    ・第10回からは、会場を甲子園球場に移し、1948(昭和23)年からは、全国高校野球選手権大会となりました。

    ・第40回大会以来、下1桁が05の回は記念大会として実施されています。大会旗および優勝旗の色は赤。優勝旗は深紅色なので「深紅の大優勝旗」と呼ばれています。歴代優勝校は、全国高等学校野球選手権大会歴代優勝校に記述されます。

    ・当大会を主目的に建設された甲子園球場は半世紀余りの大会を優先的に行っているため、当球場は高校野球の聖地として高校球児達の憧れの舞台となっています。

    ・「甲子園」という言葉自体が高校野球全国大会の代名詞となっており、「夏の甲子園」という通称としても扱われているように当大会に大きく貢献していることから、2010年シーズンから甲子園球場は、大会の特別協力として扱われています。

    ・第101回全国高等学校野球選手権大会(主催:朝日新聞社、日本高等学校野球連盟)は201986日(火)から16日間(雨天順延。準々決勝、準決勝各翌日の休養日2日を含む)、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開催されます。

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    1948817日、「プロ野球ナイター記念日」

    1948(昭和23)年の817日、日本のプロ野球が、日本で初めてナイターの公式試合が、横浜ゲーリッグ球場で、開催されたことを記念した日です。

    ・この日の夜の試合は、現在の中日ドラゴンズである中部が、32で現在の読売ジャイアンツである東京巨人軍に勝ちました。

    ・日本プロ野球史上で、初のナイトゲームでした。「ナイター」という、和製英語が初めて使われたのは、2年後の「週刊ベースボール」誌上でした。

    ・この試合の前日816日に球場の名前の由来となったルー・ゲーリッグ選手の同僚で、共に大リーグをにぎわせた本塁打王のベーブ・ルース選手が亡くなっており、試合前に両軍が追悼の黙祷をささげています。

    ・日本において野球のナイター公式戦は1933710日に戸塚球場で行われた早稲田大学野球部の2軍チーム対新人戦で、学生野球では既に実施がされていましたが、プロ野球では、この日まで、開催されていませんでした。

    ・当時、横浜ゲーリック球場は連合軍に接収されていましたが、引き続き野球場として利用され続け、連合軍により他の球場に先駆け照明施設も設置されていました。

    ・プロ野球初の試みのためにこの球場を借り受け、対戦カードは比較的人気の高い東京巨人軍と中日ドラゴンズ戦が組まれました。

    ・正確な観客数は伝わっていないものの、翌日の各新聞では「空前の超満員」と報じられ、観客がスタンドからあふれファウルグラウンドからも観戦していたほどと伝えられています。

    ・試合開始は午後88分と遅い時間でしたが、これはアメリカでナイターの経験がある選手らの「薄暮で点灯するとかえって球が見づらい」という進言を受け、完全に日没するのを待ったためです。午後101分に試合は終了しました。

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    1913816日、「女子大生誕生の日」

    1913(大正2)年の816日、東北帝国大学が、日本で初めて女子へ門戸を開きました。

    ・当時は女性に学問は必要ないとされ、大学に入学するのは男子、という暗黙の了解がありましたが、黒田チカ氏丹下ウメ氏、牧田らく氏の3名の合格を発表しました。

    3名は、東北帝国大学卒業後は、黒田チカ氏は、理学博士となり、丹下ウメ氏は、農学博士、牧田らく氏は、今のお茶の水女子大学で、数学を教えました。

    ・その後も、彼女たちの活躍に憧れた女性が次々と東北帝国大学入学を希望しました。

    ・南極観測の初の女性隊員や日本で初めての女性法学士など、歴史に名を残す人物を輩出しています。

    ・当時の澤柳政太郎・東北帝国大学総長語録に、「知らないのは恥ではない。知ろうとしないのが恥である」という言葉があります。

     ・学びたい意思があっても学問の道を閉ざされていた女性にとって、澤柳政太郎・東北帝国大学総長の英断はどれだけ希望の光を与えてくれたことでしょう。

    ・そしていまもなお、高い志を抱く女性たちによって、この言葉の精神は脈々と受け継がれています。

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    1945815日、「終戦記念日

    1945(昭和20)年の815日、昭和天皇による戦争終結の放送がなされ、38か月に及んだ太平洋戦争が終戦しました。

    ・政府主催の「全国戦没者追悼式」が、初めて開催されたのは、戦後18年たった1963(昭和38)年の今日です。

    ・現在では、この日を、「戦没者を追悼し、平和を祈念する日」としています。

    ・日本政府は、815日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催しています。一般にも同日は終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・非営利団体等による平和集会が開かれています。

    1945726日、米英中の3か国ポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求しました。

    ・日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していましたが、86日広島市に原子爆弾が投下され、88日ソ連対日宣戦布告、89日広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続きました。

    814日の御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が正式に決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言の受諾を通告しました。

    1945815日正午から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され、国民及び陸海軍に「ポツダム宣言の受諾」と「軍の降伏の決定」が伝えられました。

    ・当日は朝から、本日正午から重大発表を行なうので、全国民は謹んで必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされました。大日本帝国憲法下において神聖不可侵とされた最高権力者である天皇の肉声が初めてラジオで放送されたことと共に、「戦争終結を発表された」と、このラジオ放送(玉音放送)は国民にとって「敗戦の象徴」とも云うべき出来事であり、大きな衝撃を与えました。

    ・日本の降伏調印式は194592日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、その状況はラジオの実況中継で全世界に流されました。トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説。第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのであります。したがってアメリカの第二次世界大戦の終了は194592日ということになります。

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    1885814日、「専売特許の

    1885(明治18)年の814日、「専売特許の日」です。日本最初の専売特許が免許されたことを記念しています。

    ・特許第1号は、彫刻家、漆工芸家の堀田瑞松氏の「錆止め塗料及びその塗法」でした。

    1883(明治16)年には、特許権などの国際的保護に関するパリ条約が締結されました。これらの情勢を受けて、わが国では、国際的地位を向上させるためにも特許法を制定すべきという声が高まり、1885年(明治18)4月18日に「専売特許条例」が公布されました。

    1885年(明治18年)814日、漆を主成分とする「堀田錆止塗料及びその塗法」で日本の特許第1号を取得しています。この塗料は、鉄製船舶の船底の防錆を目的とするもので、漆のほかに、鉄粉、鉛丹、油煤、柿渋、酒精、生姜を含んでおり伝統的かつ国産の材料を活用したものでした。

    ・当時、彫刻家・漆工芸家として世に知られた堀田瑞松氏は、そのころたまたま政府要人の間で語られていたある話に研究心を刺激されます。それは、「世界の鉄製船舶が海水によって船底を浸食されるため、6ヶ月ごとに塗装しなおさなければならない。もし、もっと強力な防錆塗料が開発されれば、わが国はもとより世界の大きな利益となろう」というものでした。

    ・さっそく堀田氏は漆を主成分とする船底塗料の研究に着手し、横須賀造船所の周辺海域で実験を繰り返し、苦労の結果、この日に特許第1号を得ることが出来ました。この日を記念して、「専売特許の日」が制定されました。

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    1991813日、「函館・夜景の

    1991(平成3)年の813日、「函館・夜景の日」です。夜は、8月、景は、トランプのキング13という理屈で、813日に決まりました。

    ・この日は、美しい夜景の街として、観光客が増加することを願って、函館出身の大学生の投書をきっかけに、函館夜景の日実行委員会が実施しています。

    ・函館市役所についても「函館夜景の日」を提唱しており、函館の美しい夜景をアピールするという事が目的です。

    ・函館市は北海道南端の渡島半島南東部に位置し、天然の良港である函館港によって北海道と本州を結ぶ交通結節点、道南地域の中心都市として発展してきた都市で、札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市です。

    ・この日の夜は、家庭の窓を開けてもらうなどして、市民ぐるみのライトアップをしています。

    ・標高334mの函館山の山頂から観る夜景は、有名な「函館」の夜景記念日には、街全体が、それぞれ灯を燈して、最も美しい夜景を作り出します。この夜景は、100万ドルの夜景として知られています。

    ・毎年500万人近い観光客が訪れる観光都市となっていますが、函館は、一つ星以上の星が付いている観光地が市内に20ヶ所以上あり、函館の夜景は特に観光で有名です。

    ・函館の夜景は神戸、長崎と並ぶ日本三大夜景の1つで函館を象徴するスポットになっています。

    ・函館山の年間トワイライトタイムとは、日没後15分後から約20分間の薄暮の時間帯です。空がロイヤルブルーに染まり、山や川や港が浮かび上がり夜景が最も美しく輝きます。マジックアワーとも言われ、夜景撮影にも最適なタイミングです。

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    1985812航空安全の日、「「茜雲忌」」

    1985(昭和60)年の812日、日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を出した。生存者は4人でした。

    ・遺族らがつくる「812連絡会」が編集したメッセージ集のタイトルから「茜雲忌」(あかねぐもき)とも呼ばれます。

    ・日本航空123便は、8121812分に東京国際空港(羽田空港)を離陸、大阪国際空港(伊丹空港)に向かう途中でした。死者数520人は日本国内で発生した航空機事故では最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多でした。

    ・この事故の悲惨さ、ご遺族の苦しみや悲しみ、社会に与えた航空安全に対する不信の前で、JALグループは、二度と航空事故を起こさないため、事故の教訓を風化させてはならないという思いと、安全運航の重要性を再確認する場として、安全啓発センターを2006424日に開設しました。

    ・安全啓発センターは、2つの部屋から構成されています。 展示室として、当該事故の直接原因とされる後部圧力隔壁や後部胴体をはじめとする残存機体、コックピット・ボイスレコーダー、ご遺品、乗客の方々が残されたご遺書、事故の新聞報道や現場写真を展示しています。そして、資料室として、世界の主な事故や、事故の教訓に基づきどのような改善がされたかを示す「航空安全の歩み」、「被害の拡大を防いだ事例」などをパネルにまとめて展示しています。

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    2016811日、「山の日」制定日

    2016(平成28)年811日は、日本の祝日で、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」趣旨で、山に関する特別な出来事などの明確な由来があるわけではないですが、201611日施行の改正祝日法で新設されました。

     

    ・山の日は、47都道府県の山岳連盟などが中心となり、「全国山の日協議会」を設立して、運動を続けた結果、国民の祝日として制定されました。

     

    ・山の日の祝日の新設は1996年の「海の日」以来、20年振りとなります。なお、2020(令和2)年の「山の日」は、東京五輪・パラリンピック特措法により、東京オリンピックの閉会式の翌日に当たる810日(月曜日)に変更されます。

     

    ・山の日が制定されるきっかけとなったのは、「海の日があるのに、山の国である日本に山の日がないのはおかしい」という提言でした。太古から信仰的にも実生活的にも人類にとっては「山海一体」なのであり、山の日をつくることで「山海の友情」を厚くしようではないかとの提言です。

     

    ・これを受けて、国民の祝日として「山の日」を制定することを求める日本山岳会をはじめとする全国「山の日」協議会加盟諸団体や既に「山の日」を制定していた地方自治体、その他山岳関係者や自然保護団体等からの意見を受け、20134月、超党派110名の議員連盟「山の日制定議員連盟」が設立されました。議員連盟は、最終的に811日を山の日とすることを決定しました。

     

    2016811日、初めての国民の祝日「山の日」を記念して、第1回「山の日」記念全国大会が、長野県松本市上高地と松本市内で開催されました。第4回「山の日」の2019811日は、山梨県で全国大会の予定です。


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    1920810日、「道の日」制定日

    1920(大正9年)年810日に、日本の近代的な道路整備計画が決定されました。「道の日」は、この日に1986(昭和61)年に、当時の建設省が制定しました。

     

    ・「道の日」が、この日と決められた由来は、1920年(大正9年)810日に日本で最初の近代的道路整備計画となる「第一次道路改良計画」がスタートした日でもあり、また8月は「道路ふれあい月間」として、各地で道路に関するPR活動が行われていたことからこの日としました。

     

    ・国民に道についての理解を深めてもらおうという趣旨で、制定された1986年と翌1987(昭和62)年には、「道の日」の制定を記念して「日本の道100選」が選定されました。

     

    ・この日は、国をはじめ県や市町村、道路関係公団など、道の建設や管理維持にかかわる組織や団体が、実行委員会を作り、全国各地で各種のイベントを行い、道路の意義や重要性について、考えてもらおうという日です。

     

    ・「道の日」実行委員会が主催する「道の日」中央行事が毎年東京都内で開催されています。

     

    ・さらには、道について理解と関心を持ってもらうために、毎年810日の「道の日」には、全国各地でマラソンやウォークラリーなど、様々なイベントも企画され、恒例行事としての運動も展開されています。

     

    ・因みに、1990(平成2)年6月現在、一般国道は、449号線ありますが、間に抜けている数がありますので、実際には、400余線存在しています。

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    194589日、「長崎原爆忌」の日

    1945(昭和20年)年89日は、国が定めた「長崎原爆忌」慰霊の日です。

     

    ・太平洋戦争の終戦間際、広島に続いて2つ目の原爆が、長崎に投下されました。

     

    ・広島の原爆から3日後の89日は、アメリカ軍の1発の原爆で消えてしまった長崎の町と、多くの人々の命を慰霊する日です。

     

    ・この日午前112分。長崎市の市街地の北部、松山町付近上空で炸裂したプルトニウム型原爆は「ファットマン」と呼ばれ、TNT火薬22キロトン分の威力で、広島に投下されたウラン爆弾「リトルボーイ」の1.5倍で、約7万4000人の命を奪い、12万人以上が罹災被害者となりました。日本がポツダム宣言を受け入れ降伏するわずか一週間前の悲劇でした。

     

    ・長崎市は、この日を「ながさき平和の日」として原爆犠牲者の慰霊と、恒久平和を願う「祈りの式典」を毎年行っています。

     

    ・それから72年余。今年も平和公園で長崎市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開催され、被爆者と遺族らが犠牲者を悼み、平和宣言と慰霊の式典が執り行われます。

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    198988日、「親孝行」の日

    1989(平成元)年88日、親孝行全国推進運動協会が、父母を大切にする精神を全国に広げるために、「親孝行の日」を制定しました。

     

    ・日付は、「88」が「は(8)(8)」、「パ(8)(8)」と読めることと、「ハチハチ」を並びかえると「ハハ()チチ()」となることからこの日になりました。

     

    ・「親孝行したい時に親はなし」というように、あとで後悔することがないように、親への感謝の気持ちを形にしたい日です。

     

    ・親孝行というものは、いつかしようと思っていてもなかなかできないものです。親が健在な方は、せめて感謝の気持ちを伝えてみてはいかがでしょうか。さりげなく自分の子に「今日は、ハハチチで親孝行の日」と伝えてみるのも良いかもしれません。

     

    ・親孝行全国推進運動協会理事長の作家・みうらこういち氏は、千数百社の企業経営者を取材した上で、若い頃に一生懸命に親孝行した社長の企業が、各業界で見事に成功している実例が数多くあることを知り、親孝行について徹底的に研究した結果、親孝行には不思議な超能力的パワーを授かるとの確信を持つに至ったといいます。

     

    ・このことから、親孝行の大切さ、素晴らしさを知ってもらい、親孝行をしてもらうことによって、幸福と成功を勝ち取って欲しいとの願望から、1989 (平成元年)88日に全国に向けてユニークな「親孝行推進運動協会」を発足しました。

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    200687日、「丹波竜」化石発見

    2006(平成18)年87日兵庫県丹波市の篠山層群で、恐竜の化石が発見されました。

     

    ・発見者は、地学愛好家の足立冽さんと村上茂さんでした。早速、「人と自然の博物館」に持ち込むと、恐竜の化石であることが分かりました。

     

    ・その後、関係機関が、本格的な発掘調査を行い、さまざまな生物の化石が発見されました。なかでも、恐竜の化石は、新種で、後に、「タンバティタニス・アミキティアエ」という学名がついたものが、通称「丹波竜」です。

     

    ・丹波竜は、兵庫県丹波市山南町加古川水系篠山川河床の篠山層群において200687日に初めて発見されました。ティタノサウルス形類と推測される恐竜またはその化石を言います。

     

    2014812日、兵庫県立人と自然の博物館は、丹波竜が新属新種と認められたと発表しました。学名は、発見地の丹波と、ギリシア神話の巨人ティタニス、発見者2人の「友情」を意味するラテン語のアミキティアエを組み合わせたものです。

     

    200687日に丹波市在住の2人の男性によって篠山川において発見された小さな化石の一部は、その後専門家の鑑定により、中生代白亜紀に繁栄した竜脚類の一グループに属するティタノサウルス形類という恐竜である可能性が高まり、ほぼ全身に近い骨格が良好な保存状態で発掘される可能性も高く、この種の系統進化を解き明かす上で極めて貴重な資料となると考えられ、大きなニュースとして報道されました。

     

    2008420日より「ひとはく恐竜ラボ」がオープンしました。ここでは1次・2次発掘調査において採取された岩盤から化石を取り出す作業のほか、約4000点の恐竜化石のクリーニング作業を間近で観察することが出来ます。さらに腰の骨から尾の前部までが連結した化石も見ることができます。

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    194586日、「平和記念日」制定

    1945(昭和20)年86日午前815分に、アメリカ軍のB29爆撃機エノラ・ゲイ号によって、世界初の原子爆弾が広島市に投下されました。

     

    ・一瞬にして、当時の広島市の人口35万人のうち約14万人が被爆から2 から4か月以内に死亡したとされます。今もなお原爆症によって命を失う人が絶えません。この歴史的悲劇から人類は、目をそむけることなく、犠牲者の霊を慰め、世界平和を祈る日として、広島市では、今日を「平和記念日」としています。

     

    ・広島平和記念式典とは毎年、広島市の主催により、広島県広島市に原爆が投下された86日の原爆忌に広島平和記念公園で行われ、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典です。なお正式には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」といいます。

     

    ・その時、広島で起きたことを実感として捉えることは難しいですが、想像を絶する地獄絵図が展開されたであろうことは間違いありません。さらには何十年にもわたり人々を苦しめた原爆後遺症。これほどまでに悲惨なことが、この平和な国にあったのだということを、たとえ70年を超える期間が経っても決して忘れてはいけないのです。

     

    ・この日、広島では、犠牲者の霊を慰め世界の平和を祈念する式典が行われます。この日の夜、市内の各河川で、精霊流しが行われます。

     

    ・爆心地から、160メートルにあった旧広島県産業奨励館は、当時の惨状を伝える原爆ドームとして、1996年に、世界遺産に登録されました。

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    198485日、「タクシーの日」制定記念日

    1912(大正元)年85日に、現在の東京・有楽町に設立されたタクシー自働車株式会社が、営業を開始したことを記念して、東京乗用旅客自動車協会(現・一般社団法人東京ハイヤー・タクシー協会)が、1984(昭和59)年に、この日を「タクシーの日」と制定しました。翌年からは、毎年この日に合わせてイベントなどを実施しています。

     

    ・後には、全国乗用自動車連合会(現・一般社団法人 全国ハイヤー・タクシー連合会)を中心に、全国キャンペーンも展開されるようになりました。

     

    ・我が国の最初のタクシーは、タクシーメーターを装備したT型フォード6台で上野と新橋の営業所で営業を開始しました。当時は、「辻待ち自動車」と呼ばれていました。

     

    ・このタクシーがそれまでのハイヤーと異なる点は、料金算出にタクシーメーターを採用したことでした。

     

    ・タクシーは駅前等のタクシー乗り場や、街中の流し、無線配車によって旅客を乗せますが、ハイヤーは完全予約制で流し営業をしません。タクシーの料金体系は、基本的に時間・距離などによるメーター制で、乗車地から降車地までが対象であるのに対し、ハイヤーは営業所の車庫から出て車庫に戻るまで間が課金対象です。

     

    2006(平成18年)6月にタクシーの日のキャンペーンにあたっての全国統一テーマ・キャッチフレーズを募集し、応募作品の中から「タクシーが つなぐ人の輪 地域の輪」を採用しました。

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    195884日、京都大学隊チョゴリザ」初登頂

    1958(昭和33)年84日は、京都大学人文科学研究所の桑原武夫所長を隊長に、西パキスタン北部、カシミール地方のバルトロ氷河を遡りヒマラヤの未踏峰チョゴリザ北東峰(標高7654m)、優美な姿から別名「花嫁の峰」の初登頂に成功しました。

     

    ・カラコルム山脈中の高峰「チョゴリザ」は、南西峰(標高7665)と北東峰からなり、北東峰のチョゴリザⅡに、藤平正夫隊員と平井一正隊員が、この日、合計3度目のアタックにより初登頂をなしとげました。

     

    ・戦後初の文部省助成による海外学術調査として、1958年には京都大学学士山岳会チョゴリザ遠征隊が、単独大学としては世界初の7000m峰初登頂であるカラコルム山脈チョゴリザ峰登頂を果たすとともに、高所フィールドにおける総合的学術調査を実施しました。

     

    ・この偉業は、『花嫁の峰 チョゴリザ』という映画となって広く一般に公開され、戦後の日本社会に大きな夢と感動を,そして研究をこころざす青少年へ多大な刺激を与えました。

     

    1958年の桑原武夫隊長率いる遠征隊がチョゴリザ(7654m)に初登頂は、京都大学がヒマラヤに初登頂した最初の記録です。その後、ノシャック、サルトロカンリ、ガネッシュ(アンナプルナ南峰)とヒマラヤ初登頂が続きました。

     
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    187283日、司法書士発布記念日

    1872(明治5)83日は、日本初の裁判所構成法ともいうべき「司法職務定制」が定められました。 この法律では「証書人・代書人・代言人」が法制度を支える3つの基本的な職能として定められました。

     

    ・特に代書人・代言人は裁判の円滑な行使に不可欠な存在として位置付けられ、証書人は現在の公証人、代書人は現在の司法書士、代言人は現在の弁護士となりました。

     

    ・日本が新たな法制度を導入した記念すべきこの日、同時に司法書士制度が始まりました。

     

    20106月に開催された「第72回日本司法書士会連合会 定時総会」において83日を「司法書士の日」として制定する事が決議されました。

     

    ・明治5年(1872年)83日、太政官無号達で司法職務定制が定められ、司法書士の前身である代書人が誕生しました。

     

    ・司法書士は、他人の依頼を受けて、裁判所・検察庁・法務局に提出する書類の作成や代理を業とする。認定を受けた司法書士は、簡易裁判所が管轄する民事事件の代理を業とします。

    ・役所などに提出する専門的な書類の作成を代理で請け負ってもらえます。代表的なものとして、マンションや土地、建物を所有する際の不動産登記手続きなどがあります。

    ・役所に対しての難しい問題から、ごく身近な相談ごとまで、幅広く対応してくれる司法書士を地元の法律相談屋さんとして頼りにしてみるのもいいかもしれません。



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    187282日、学制発布記念日

    ・学制発布記念日とは、1872(明治5)年82日のこの日、学制の趣旨を明記した太政官布告とともに学制が公布され、日本の近代学校制度が成立しました。

    ・当時、寺小屋等から小学校に昇格した小学校が、23,760校誕生しました。

    ・この時の教育制度は、下等小学4年、上等小学4年の「44制」でした。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指しました。学制は教育令の公布により、1879(明治12年)929日に廃止されました。

    ・教育令は、学制に比べて簡略であり、教育を地方の管理にゆだねました。 1880 12月、太政官布告をもって改正し、地方官の権限を強め、また就学義務などを強化しました。 1886年諸学校令の制定によりその効力を失いました。

    ・学校令は、1886(明治19)年に発布された学校教育に関する法令の総称をいいます。帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令および諸学校通則などで、尋常小学校4年が義務教育とされました。学校体系の基本を確立し、近代日本の教育と文化のあり方に大きな影響を与えました。

    ・学校令は、広義には第2次大戦後、1947(昭和22)年の学校教育法が公布されるまでの間に公布された学校種別の単行勅令を総称して言います。

    1947(昭和22)年の学校教育法は、現行学校制度の基本を規定した法律です。第2次世界大戦後の教育改革において、小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学校4年制の新学校体系が採用され、その基本規定として、教育基本法とともに公布され、これに基づいて戦後の新学制が成立しました。

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    197781日、水の日」

    ・水の日とは、1977(昭和52)年531日の閣議了解により水の週間と合わせて定められました。年間を通じて水の使用量が多く、水について関心が高まる8月の初日に設定されました。水資源の有限性、水の貴重さ及び水資源開発の重要性について国民の関心を高め、理解を深めるための日本の記念日です。

    ・その後、国土交通省は、2014(平成26)年に施行された水循環基本法第10条において、「水の日」は81日とするとし、国民の間に広く健全な水循環の重要性についての理解や関心を深める日として、水循環基本法が施行され、81日は、国民の間に広く健全な水循環の重要性についての理解や関心を深める日として、法律で定められた「水の日」となりました。

    ・「水の日」及び「水の週間」制定の理由は、わが国の水需要は、生活水準の向上、経済の進展等に伴って近年著しく増大してきましたが、一方、水資源の開発は次第に困難になっており、渇水時には水不足が生じることが予想される状況になっています。

    ・従って、国は、毎年81日を「水の日」とし、この日を初日とする一週間を「水の週間」として、この週間において、水資源の有限性、水の貴重さ及び水資源開発の重要性に対する関心を高め、理解を深めるための諸行事を行うことによってわが国の水問題の解決を図り、国民経済の成長と国民生活の向上に寄与することを目指しています。

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    1959731日、こだまの日」

    1959(昭和34)年731日は、特急「こだま」による狭軌道鉄道での時速163キロメートルを達成した日を記念した記念日です。

    ・「こだま」の名称は、1958年(昭和33年)、東京から大阪間の日帰り可能な電車による「ビジネス特急」新設にあたって、最終的には国鉄末期まで広く使われた「呼び名」で、一般公募によって決められたものです。

    ・東海道新幹線開業に伴う東京から大阪間在来線特急の廃止により、在来線特急としての「こだま」は1964930日に廃止され、翌日101日から新幹線の列車名として使用されています。

    1958(昭和33)年111日、東海道本線に華々しく登場したビジネス特急「こだま」は、当時先進国に負けない設備と性能を持つ特急電車を作る、という方針で設計された151系ビジネス特急電車でした。

    1959(昭和34)731160730秒。東海道線金谷から焼津間の上り線 東京起点202km付近で、当時の狭軌鉄道世界最高速度である時速163キロメートルの記録に成功しました。

    ・高速度試験に使用された編成の先頭車には、後にその功績をたたえたチャンピオンプレートが取り付けられました。

    ・結局、ビジネス特急電車の東海道線での活躍は登場から、わずか6年間でした。しかしその後は山陽・九州地区に活躍の舞台を移し、さらには性能向上改造を経て上越線、中央線、信越線などで使用されました。そして、このデザインは国鉄特急列車の基本となって日本中を駆け巡ったのです。

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    1958730日、アメリカのNASA設立の日」

    ・日本の日付の1958(昭和33)年730日は、アメリカのNASA設立の日です。アメリカの大統領の直轄機関で、本部はワシントンに置かれています。

    アメリカ航空宇宙局(NASA)は、アメリカ合衆国政府内における宇宙開発に関わる計画を担当する連邦機関です。国家航空宇宙法に基づき、先行の国家航空宇宙諮問委員会を発展的に解消する形で設立されました。

    ・アメリカ航空宇宙局(NASA)は、アメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、アポロ計画における人類初の月面着陸、スカイラブ計画における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機スペースシャトルなどを実現させました。

    ・現在は国際宇宙ステーションの運用支援、オリオン宇宙船、大型打ち上げロケット、商業乗員輸送などの開発と監督を行なっています。

    ・宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、宇宙空間の平和目的における長期間の探査です。

    ・人工衛星を使用した地球自体への探査、無人探査機を使用した太陽系の探査、進行中の冥王星探査機のような太陽系外縁部の探査、さらにはハッブル宇宙望遠鏡などを使用した、ビッグ・バンを初めとする宇宙全体への探査などが主な役割となっています。

    20062月に発表されたNASAの到達目標は、「宇宙空間の開拓、科学的発見、そして最新鋭機の開発において、常に先駆者たれ」でした。

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    1973729日、アマチュア無線の日」

    1973(昭和48)年729日は、一般社団法人日本アマチュア無線連盟が制定した記念日です。

    アマチュア無線の健全な発達と、アマチュア無線に関する科学知識の普及と向上を図ることを目的として、この記念日は制定されました。

    ・太平洋戦争によって禁止されていたアマチュア無線の再開の記念日で、毎年729日です。

    1952年(昭和27年)729日、1950年(昭和25年)に施行された電波法に基づきアマチュア局の予備免許が全国の30人に発給されました。 これを記念して1973年(昭和48年)に日本アマチュア無線連盟がこの729日をアマチュア無線の日として制定しました。

    一般社団法人日本アマチュア無線連盟は、アマチュア無線愛好家を中心として組織された非営利団体です。日本におけるアマチュア無線の健全な発展をはかり、あわせて、内外の無線科学、文化の向上と発展に寄与することを目的とし組織されています。

    ・会員は、アマチュア局を開設している者による正員(個人、もしくは社団)と、開設していないがアマチュア無線に興味を持つ個人である准員、正員と同居している家族(配偶者・親子・兄弟姉妹)であって個人でアマチュア局を開設している家族会員、連盟の趣旨に賛同し連盟の事業を援助しようとする個人・法人・団体による賛助会員に分けられます。

    ・ 無線従事者であってもアマチュア局を開局していなければ、換言すれば呼出符号(コールサイン)が無ければ正員にはなれません。

    ・ アマチュア局の免許が失効した場合には、個人は正員から准員に変更され、社団は准員にはなれず退会となります。

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    1878728日、槍ヶ岳登山記念日」

    1878(明治11)年728日は、イギリスのウィリアム・ゴーランド造幣技師が、外国人として初めて槍ヶ岳の登山に成功しました。

    ・槍ヶ岳は、飛騨山脈南部にある標高3,180mの山です。山域は中部山岳国立公園に指定されており、日本で5番目に高い山です。長野県松本市・大町市・岐阜県高山市の境界にあります。

    ・それまでは、信仰のために登っていた槍ヶ岳に、スポーツとして登るようになったのは、この時期以降のことです。ちなみに、槍ヶ岳初登頂は、修行僧の播隆上人と中田又重登山道開削者でした。

    ・ウィリアム・ゴーランド造幣技師は、明治政府がイギリスより大阪造幣局に招いた造幣技師で、日本の古墳研究の先駆者としても名高く、「日本考古学の父」と呼ばれています。さらに、「日本アルプス」の命名者としても知られています。

    ・「日本アルプス」は、本州中部、中央高地に南北に連なる飛驒・木曽・赤石山脈の総称です。1881年(明治14)イギリス人ウィリアム・ゴーランド造幣技師が飛驒山脈に対して用い、その後に、ウォルター・ウェストン宣教師が、三山脈の総称としました。また、小島烏水登山家はそれぞれに北・中央・南アルプスの名をつけました。

    ・深田久弥 登山家は、「富士山と槍ヶ岳は、日本の山を代表する2つのタイプである。一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はないだろう。」と「日本百名山」の中で記述しています。

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    1976727日、政治を考える日」

    1976(昭和51)年727日は戦後最大の疑獄事件ともいえる「ロッキード事件」により、田中角栄元総理大臣が受託収賄および外国為替・外国貿易管理法違反で逮捕されました。この日を記念して「政治を考える」という反面教師的な記念日です。

    ・アメリカの有名な航空メーカー「ロッキード社」の航空機受注をめぐり、多額な工作資金が日本政財界にばらまかれた戦後最大の汚職事件です。 1976年に明るみになり、複数の政治家が逮捕されるという事態となりました。

    ・この事件を教訓にするべく、「政治を考える日」が制定されました。政治家が何か事件を起こしてから、非難をしたところで手遅れです。

    ・今日727日「政治を考える日」は、正に反面教師的な意味を持つ記念日です。また、この事件を機会に改めて 政治を考えてみましょうという日です。

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    1945726日、ポツダム宣言の日」

    1945(昭和20)年の今日726日は、アメリカ合衆国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、中華民国の蒋介石主席の3ヵ国首脳が、日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表しました。

    ・この日は、日本に対して、第2次世界大戦に関する13条からなる無条件降伏を勧告する宣言を発令した日です。

    1945717日から82日まで、ドイツのベルリン郊外のポツダムで、アメリカ合衆国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン共産党書記長の三国首脳会議が開かれました。

    ・会議の議題は、ドイツ、東欧問題と日本の終戦問題でした。このポツダム会議の最中の726日に、「米英支三国共同宣言」いわゆるポツダム宣言が発表されました。

    ・日本に、即時無条件降伏を求めた13条の内容には、軍国主義の排除、領土の制限、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義復活の強化などに加えて、目的が達成されるまでの占領がありました。

    ・天皇制維持についての記述がなかったため、日本政府で激しい国体維持の議論が生じました。

    ・日本は、「ポツダム宣言」の黙殺を決めました。この後、米国による広島市・長崎市へ原爆投下と、ソ連の対日参戦が行われました。1945年(昭和20年)814日、日本政府はポツダム宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌815日に玉音放送によって国民に発表されました。

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    1940725日、命のビザ」発給の日

    1940(昭和15)年の725日は、リトアニアの日本領事代理の杉原千畝領事官は、当時の外務省に反してビザを発給して、約6千名の尊い命を救いました。この発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、現在世界各国で活躍しています。後年イスラエルから「諸国民の中の正義の人賞」が贈られました。

    ・第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた彼は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、19407月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給して大量の避難民を救ったことで知られています。その避難民の多くがユダヤ人系でした、「東洋のシンドラー」などとも呼ばれています。

    20001010日の河野洋平外務大臣による故杉原外交官に対す次の演説があります。生誕100年という節目のことでした

    ・「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。」

    ・杉原千畝記念館は、出身地の岐阜県加茂郡八百津町八百津にあります。今でも、数多くの外国人観光客がこの地を訪れています。また、併設の人道の丘公園では、大型のアスレチック遊具・ローラー滑り台・芝生広場などがあり、週末にはご家族連れでピクニックなどに訪れます。

    ・第二次世界大戦という人類史上類を見ない暗黒の時代に、組織人としての服務規律と人命救助の間で葛藤しながらも、最終的には個人としての良心を保ち行動し得た杉原外交官。今なお世界各地で偏見や人種差別に基づく戦争が絶えない状況に鑑みると、その行いや背景となる思いは、人類が未来永劫にわたって希求すべき人種・民族を超えた人道主義・博愛精神の稀有かつ勇気ある表出例として、世界が共有し次世代に語り継ぐべき真正無二の行いであります。

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    1911724日、マチュピチュ発見の日」

    1911年の今日724日は、インカ帝国の空中都市「マチュピチュ」が発見されました日です。

    ・アメリカのハイラム・ビンガム3世探検家は、1911724日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見しました。

    ・彼は、1915年までに3回の発掘を行いました。彼はマチュピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになりました。

    ・「マチュピチュ」の遺跡は、高い山の上にあって、下からは、その存在を確認できません。

    ・そのために、スペイン人に荒らされることなく、当時の姿を残すことが出来ました。

    ・マチュピチュは、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根、標高2,430mにあります。

    ・当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400mに位置する。標高2,430mのマチュピチュの遺跡から、さらに約千メートル高い場所にその首都がありました。現在のクスコはペルー有数の都市でその市街地は世界遺産です。

    ・なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡しましたが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係や役割分担など、その理由はまだ明確に分かっていません。

    ・野内与吉氏は、福島県大玉村出身で、ペルーのマチュピチュ村の初代村長でした

    1895年裕福な農家の家に生まれ、1917年、21歳のときにゴム景気で湧くペルーに移民し、1923年よりペルー国鉄で勤務し、マチュピチュまでの鉄道建設に携わったのを契機にマチュピチュに移住しました。1939年にマチュピチュ地区の行政最高責任者に就任、1948年から2年間、村長を務め、1969年に現地で亡くなるまで、村初のホテル「ホテル・ノウチ」を開業したり、水力発電所を作ったりするなど村の発展に尽力しました。

    2015年、マチュピチュ村は、彼の故郷、大玉村と同村にとって初となる友好都市協定を締結しました。

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