今日は何の日

「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    2019年07月

    1959731日、こだまの日」

    1959(昭和34)年731日は、特急「こだま」による狭軌道鉄道での時速163キロメートルを達成した日を記念した記念日です。

    ・「こだま」の名称は、1958年(昭和33年)、東京から大阪間の日帰り可能な電車による「ビジネス特急」新設にあたって、最終的には国鉄末期まで広く使われた「呼び名」で、一般公募によって決められたものです。

    ・東海道新幹線開業に伴う東京から大阪間在来線特急の廃止により、在来線特急としての「こだま」は1964930日に廃止され、翌日101日から新幹線の列車名として使用されています。

    1958(昭和33)年111日、東海道本線に華々しく登場したビジネス特急「こだま」は、当時先進国に負けない設備と性能を持つ特急電車を作る、という方針で設計された151系ビジネス特急電車でした。

    1959(昭和34)731160730秒。東海道線金谷から焼津間の上り線 東京起点202km付近で、当時の狭軌鉄道世界最高速度である時速163キロメートルの記録に成功しました。

    ・高速度試験に使用された編成の先頭車には、後にその功績をたたえたチャンピオンプレートが取り付けられました。

    ・結局、ビジネス特急電車の東海道線での活躍は登場から、わずか6年間でした。しかしその後は山陽・九州地区に活躍の舞台を移し、さらには性能向上改造を経て上越線、中央線、信越線などで使用されました。そして、このデザインは国鉄特急列車の基本となって日本中を駆け巡ったのです。

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    1958730日、アメリカのNASA設立の日」

    ・日本の日付の1958(昭和33)年730日は、アメリカのNASA設立の日です。アメリカの大統領の直轄機関で、本部はワシントンに置かれています。

    アメリカ航空宇宙局(NASA)は、アメリカ合衆国政府内における宇宙開発に関わる計画を担当する連邦機関です。国家航空宇宙法に基づき、先行の国家航空宇宙諮問委員会を発展的に解消する形で設立されました。

    ・アメリカ航空宇宙局(NASA)は、アメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、アポロ計画における人類初の月面着陸、スカイラブ計画における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機スペースシャトルなどを実現させました。

    ・現在は国際宇宙ステーションの運用支援、オリオン宇宙船、大型打ち上げロケット、商業乗員輸送などの開発と監督を行なっています。

    ・宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、宇宙空間の平和目的における長期間の探査です。

    ・人工衛星を使用した地球自体への探査、無人探査機を使用した太陽系の探査、進行中の冥王星探査機のような太陽系外縁部の探査、さらにはハッブル宇宙望遠鏡などを使用した、ビッグ・バンを初めとする宇宙全体への探査などが主な役割となっています。

    20062月に発表されたNASAの到達目標は、「宇宙空間の開拓、科学的発見、そして最新鋭機の開発において、常に先駆者たれ」でした。

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    1973729日、アマチュア無線の日」

    1973(昭和48)年729日は、一般社団法人日本アマチュア無線連盟が制定した記念日です。

    アマチュア無線の健全な発達と、アマチュア無線に関する科学知識の普及と向上を図ることを目的として、この記念日は制定されました。

    ・太平洋戦争によって禁止されていたアマチュア無線の再開の記念日で、毎年729日です。

    1952年(昭和27年)729日、1950年(昭和25年)に施行された電波法に基づきアマチュア局の予備免許が全国の30人に発給されました。 これを記念して1973年(昭和48年)に日本アマチュア無線連盟がこの729日をアマチュア無線の日として制定しました。

    一般社団法人日本アマチュア無線連盟は、アマチュア無線愛好家を中心として組織された非営利団体です。日本におけるアマチュア無線の健全な発展をはかり、あわせて、内外の無線科学、文化の向上と発展に寄与することを目的とし組織されています。

    ・会員は、アマチュア局を開設している者による正員(個人、もしくは社団)と、開設していないがアマチュア無線に興味を持つ個人である准員、正員と同居している家族(配偶者・親子・兄弟姉妹)であって個人でアマチュア局を開設している家族会員、連盟の趣旨に賛同し連盟の事業を援助しようとする個人・法人・団体による賛助会員に分けられます。

    ・ 無線従事者であってもアマチュア局を開局していなければ、換言すれば呼出符号(コールサイン)が無ければ正員にはなれません。

    ・ アマチュア局の免許が失効した場合には、個人は正員から准員に変更され、社団は准員にはなれず退会となります。

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    1878728日、槍ヶ岳登山記念日」

    1878(明治11)年728日は、イギリスのウィリアム・ゴーランド造幣技師が、外国人として初めて槍ヶ岳の登山に成功しました。

    ・槍ヶ岳は、飛騨山脈南部にある標高3,180mの山です。山域は中部山岳国立公園に指定されており、日本で5番目に高い山です。長野県松本市・大町市・岐阜県高山市の境界にあります。

    ・それまでは、信仰のために登っていた槍ヶ岳に、スポーツとして登るようになったのは、この時期以降のことです。ちなみに、槍ヶ岳初登頂は、修行僧の播隆上人と中田又重登山道開削者でした。

    ・ウィリアム・ゴーランド造幣技師は、明治政府がイギリスより大阪造幣局に招いた造幣技師で、日本の古墳研究の先駆者としても名高く、「日本考古学の父」と呼ばれています。さらに、「日本アルプス」の命名者としても知られています。

    ・「日本アルプス」は、本州中部、中央高地に南北に連なる飛驒・木曽・赤石山脈の総称です。1881年(明治14)イギリス人ウィリアム・ゴーランド造幣技師が飛驒山脈に対して用い、その後に、ウォルター・ウェストン宣教師が、三山脈の総称としました。また、小島烏水登山家はそれぞれに北・中央・南アルプスの名をつけました。

    ・深田久弥 登山家は、「富士山と槍ヶ岳は、日本の山を代表する2つのタイプである。一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はないだろう。」と「日本百名山」の中で記述しています。

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    1976727日、政治を考える日」

    1976(昭和51)年727日は戦後最大の疑獄事件ともいえる「ロッキード事件」により、田中角栄元総理大臣が受託収賄および外国為替・外国貿易管理法違反で逮捕されました。この日を記念して「政治を考える」という反面教師的な記念日です。

    ・アメリカの有名な航空メーカー「ロッキード社」の航空機受注をめぐり、多額な工作資金が日本政財界にばらまかれた戦後最大の汚職事件です。 1976年に明るみになり、複数の政治家が逮捕されるという事態となりました。

    ・この事件を教訓にするべく、「政治を考える日」が制定されました。政治家が何か事件を起こしてから、非難をしたところで手遅れです。

    ・今日727日「政治を考える日」は、正に反面教師的な意味を持つ記念日です。また、この事件を機会に改めて 政治を考えてみましょうという日です。

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    1945726日、ポツダム宣言の日」

    1945(昭和20)年の今日726日は、アメリカ合衆国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、中華民国の蒋介石主席の3ヵ国首脳が、日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表しました。

    ・この日は、日本に対して、第2次世界大戦に関する13条からなる無条件降伏を勧告する宣言を発令した日です。

    1945717日から82日まで、ドイツのベルリン郊外のポツダムで、アメリカ合衆国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン共産党書記長の三国首脳会議が開かれました。

    ・会議の議題は、ドイツ、東欧問題と日本の終戦問題でした。このポツダム会議の最中の726日に、「米英支三国共同宣言」いわゆるポツダム宣言が発表されました。

    ・日本に、即時無条件降伏を求めた13条の内容には、軍国主義の排除、領土の制限、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義復活の強化などに加えて、目的が達成されるまでの占領がありました。

    ・天皇制維持についての記述がなかったため、日本政府で激しい国体維持の議論が生じました。

    ・日本は、「ポツダム宣言」の黙殺を決めました。この後、米国による広島市・長崎市へ原爆投下と、ソ連の対日参戦が行われました。1945年(昭和20年)814日、日本政府はポツダム宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌815日に玉音放送によって国民に発表されました。

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    1940725日、命のビザ」発給の日

    1940(昭和15)年の725日は、リトアニアの日本領事代理の杉原千畝領事官は、当時の外務省に反してビザを発給して、約6千名の尊い命を救いました。この発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、現在世界各国で活躍しています。後年イスラエルから「諸国民の中の正義の人賞」が贈られました。

    ・第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた彼は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、19407月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給して大量の避難民を救ったことで知られています。その避難民の多くがユダヤ人系でした、「東洋のシンドラー」などとも呼ばれています。

    20001010日の河野洋平外務大臣による故杉原外交官に対す次の演説があります。生誕100年という節目のことでした

    ・「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。」

    ・杉原千畝記念館は、出身地の岐阜県加茂郡八百津町八百津にあります。今でも、数多くの外国人観光客がこの地を訪れています。また、併設の人道の丘公園では、大型のアスレチック遊具・ローラー滑り台・芝生広場などがあり、週末にはご家族連れでピクニックなどに訪れます。

    ・第二次世界大戦という人類史上類を見ない暗黒の時代に、組織人としての服務規律と人命救助の間で葛藤しながらも、最終的には個人としての良心を保ち行動し得た杉原外交官。今なお世界各地で偏見や人種差別に基づく戦争が絶えない状況に鑑みると、その行いや背景となる思いは、人類が未来永劫にわたって希求すべき人種・民族を超えた人道主義・博愛精神の稀有かつ勇気ある表出例として、世界が共有し次世代に語り継ぐべき真正無二の行いであります。

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    1911724日、マチュピチュ発見の日」

    1911年の今日724日は、インカ帝国の空中都市「マチュピチュ」が発見されました日です。

    ・アメリカのハイラム・ビンガム3世探検家は、1911724日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見しました。

    ・彼は、1915年までに3回の発掘を行いました。彼はマチュピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになりました。

    ・「マチュピチュ」の遺跡は、高い山の上にあって、下からは、その存在を確認できません。

    ・そのために、スペイン人に荒らされることなく、当時の姿を残すことが出来ました。

    ・マチュピチュは、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根、標高2,430mにあります。

    ・当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400mに位置する。標高2,430mのマチュピチュの遺跡から、さらに約千メートル高い場所にその首都がありました。現在のクスコはペルー有数の都市でその市街地は世界遺産です。

    ・なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡しましたが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係や役割分担など、その理由はまだ明確に分かっていません。

    ・野内与吉氏は、福島県大玉村出身で、ペルーのマチュピチュ村の初代村長でした

    1895年裕福な農家の家に生まれ、1917年、21歳のときにゴム景気で湧くペルーに移民し、1923年よりペルー国鉄で勤務し、マチュピチュまでの鉄道建設に携わったのを契機にマチュピチュに移住しました。1939年にマチュピチュ地区の行政最高責任者に就任、1948年から2年間、村長を務め、1969年に現地で亡くなるまで、村初のホテル「ホテル・ノウチ」を開業したり、水力発電所を作ったりするなど村の発展に尽力しました。

    2015年、マチュピチュ村は、彼の故郷、大玉村と同村にとって初となる友好都市協定を締結しました。

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    1979723日、文月ふみの日」

    1979(昭和54)年の今日723日は、日本の旧郵政省が「ふみ」を「23」と語呂合わせして、もっと手紙を書こうとの趣旨で、「ふみの日」を記念日として創設しました。

    1975年度から毎月23日を「ふみの日」として、各地方別に手紙を書く運動を展開していましたが、1979年から国民的運動にするために、全国的な規模でキャンペーンを展開するようになりました。なお7月は日本では旧暦7月のことを文月という別称でよんでいたこと、そして23日は「ふみ」の語呂合わせにちなんだものです。

    ・この日には、さまざまなイベントが行われます。「文月のふみの日」には、手紙の楽しさ、手紙を受け取る嬉しさを通じて文字文化を継承する一助となるようにとの主旨から記念日に制定されました。

    ・毎年この日には、手紙を書くことを普及し啓発する運動が、全国的に展開されます。その一環として、発効される「ふみの日」切手は有名です。

    2018(平成30)年の「ふみの日にちなむ郵便切手」は、723日(月)に発売されました。62円郵便切手、82円郵便切手ともにシール式となっており、それぞれ310円、410円のシート単位で販売されました。手紙の温かさが伝わるよう、手彫りした消しゴムハンコを使用したデザインになっていました。切手シートは、名刺入れなどに入れて携帯しやすいよう、ミシン目に沿って2つ折りにすることが出来ました。

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    1899722日、著作権制度の日」

    1899(明治32)年の今日722日は、著作権制度が創設されました。同じ知的所有権でも、特許権なども含む工業所有権の制度より、14年遅れて認められました。

    ・著作権制度は、著作者や実演家などの権利を定め、著作物などの公正な利用を図ることで、権利を保護し、文化の発展に尽くすことを目的とします。

    1899(明治32)年7月22日に「著作権法」が制定され、著作権制度が創設されました。それまでは書籍についてのみ著作権が守られていましたがこの法律により全ての著作物についての著作権が適用されるようになりました。但し、工業製品等は除かれます。

    ・文化庁のウェブサイトによると、具体的には、小説、音楽、美術、映画、コンピュータプログラム等が、著作権法上、著作物の例示として挙げられています。

    ・その他、編集物で素材の選択又は配列によって創作性を有するものは、編集著作物として保護されます。新聞、雑誌、百科事典等がこれに該当します。

    ・文化庁は、社会の変化や情報技術の発達普及等に対応した著作権制度の整備を行うため、文化審議会著作権分科会を設置し検討を行っています。

    ・また、文化庁は著作物の円滑な利用・流通を促進するための様々な施策を行うとともに、著作権に関する教育事業を実施しています。

    ・さらに,海外における海賊版対策や著作権に関する国際的なルール作りへの参画など,国際的な課題への対応も行っています。

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    1960721日、世界初の女性首相がセイロンで誕生」

    1960(昭和35)年の今日721日は、セイロン(現在のスリランカ)議会で、シリマヴォ・バンダラナイケが世界初の女性首相に選出されました。

    ・前年の1959年に、夫で首相でしたソロモン・バンダラナイケ氏が暗殺されたため、その志を受け継いだのです。

    ・彼女は、1916年に、キャンディ王国の貴族の家系に生まれ、1940年に結婚、夫は自由党を率いて1956年の総選挙に勝利して首相になりましたが、夫が暗殺されると、後を継いで自由党の党首になりました。

    ・その後、世界初の女性首相は英国領から独立後のセイロンで誕生しました。

    ・シリマヴォ・バンダラナイケ首相は、1960年から1965年にかけてセイロンで、1970年から1977年、1994年から2000年にはスリランカ共和国で、合計3度も首相と大統領を務めました。

    ・彼女は、世界史に新しい1ページを書き加えた偉大な女性です。彼女に続き、その後、インディラ・ガンディー印度首相、マーガレット・サッチャー英首相、アンゲラ・メルケル独首相等、世界各国に女性首相が誕生しました。

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    1969720日、アポロ11号、月面に軟着陸」

    1969(昭和44)年の今日720日は、アメリカのアポロ11号が、月面の「静かの海」に、人類で初めて降り立つ快挙を実現しました。

    ・アポロ11号に乗り込んだ3人の飛行士は、ニール・アームストロング船長、バズ・オルドリン宇宙飛行士、マイケル・コリンズ宇宙飛行士は、アメリカ最大の英雄となりました。

    ニール・アームストロング船長が、月に初めて一歩を踏み出した時、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と、地球にメッセージを地球に送ってきました。

    ・船長に続いて月面を歩いたバズ・オルドリン宇宙飛行士は、月面を「荘厳な荒れ地」と表現しました。

    1961年に、当時のジョン・F・ケネディ大統領が、「1960年代が終わるまでに人類を月に立たせる」と宣言してスタートしたアポロ計画は、この日に、見事に成功しました。

    ・しかし、この計画は困難を極めました。まずは、人間を宇宙まで打ち上げるロケットの開発です。そして、最後には、人間の乗る部分を残して、あとは全て切り離してしまうことにより、遠い月までロケットを飛ばすことが出来るようになりました。

    ・アポロ計画で使用されたのは、フォン・ブラウン博士が開発を主導した「サターンV」ロケットです。全長約110mのサターンVは、現在でも史上最大のロケットとなっています。そしてサターンVには宇宙飛行士が乗り込む「アポロ宇宙船」が搭載されました。

    ・アポロ計画ではまず8号、9号、10号が有人飛行を実施し、そして1969年に打ち上げられた「アポロ11号」では、史上初めて人類が月へと降り立ちました。

    ・アポロ計画では、その後も12号、14号、15号、16号、17号と立て続けに、有人月面探査に成功し月から大量の資料を持ち帰り、月面車を利用した探査活動も実施されました。

    ・この日、彼らが持ち帰った月の石は、翌年の大阪で開催された万国博覧会で展示されました。

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    1960719日、女性大臣の日」

    1960(昭和35)年の今日719日は、日本の初の女性大臣として、中山マサ衆議院議員が、第1次池田内閣の厚生大臣になりました。

    中山マサ氏は、長崎市生まれで、イギリス人の父パワー氏と日本人の母、飯田ナカ氏の一人娘として生まれ、アメリカに留学した後、長崎市の活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校で教師を勤めて、1947(昭和22)年に旧大阪2区より、衆議院選挙に立候補して、当選し、その後、引退までに8回当選しています。

    ・中山マサ衆議院議員は、69歳で第1次池田内閣の厚生大臣として入閣し、日本初の女性大臣となった就任当時、中山マサ厚生大臣は「婦人が大臣になったからには、プラスアルファがなければ、つまり婦人問題に重点を置くということです」と、インタビューに抱負を語っています。

    ・中山マサ衆議院議員は、厚生大臣としての在任期間は5か月と短いですが、母子家庭への児童扶養手当を実現しました。

    ・中山マサ厚生大臣は、まさに池田内閣の看板として奔走したものの、第2次池田内閣では再任はされなかった。1969年(昭和44年)四男・中山正暉氏に地盤を譲り引退しました。

    ・まさに、その後の日本の女性大臣のとしての先駆けとしての功績は、多大なものがありました。

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    2011718日、なでしこジャパンW杯優勝」の日

    2011(平成23)年の今日718日は、日本の女子サッカーチーム「なでしこジャパン」が、6回女子ワールドカップドイツ大会決勝戦は、日本とアメリカ合衆国との間で、ドイツのFIFA女子ワールドカップスタジアム・フランクフルトを会場に行われた。

    ・決勝戦は、スコアー22での延長戦でも決着がつかず、PK戦にて日本がアメリカを3-1で下し大会初優勝を成し遂げました。

    ・本大会のグループリーグでは、日本はグループBでイングランドに敗北を喫し2位で通過、決勝トーナメントでは準々決勝でホスト国のドイツを延長戦の末に下し、準決勝でスウェーデンを破って決勝進出を決めました。

    ・アメリカもグループCを唯一負けたスウェーデンに次ぐ2位で通過、決勝トーナメントは準々決勝でブラジルを下し、準決勝でフランスを破って決勝進出を決めました。

    ・今回で6回目の出場となる日本チームは、グループリーグ21敗の2位で通過し、第2回大会以来の決勝トーナメント進出でした。これまで一度も勝利していなかった優勝候補のドイツやアメリカを破り、日本代表としては初のFIFA主催の世界大会優勝という快挙を成し遂げました。また大会のフェアプレー賞も受賞しました。

    MVPと得点王には澤穂希選手、また大会の優秀選手にあたるオールスターチームには澤穂希選手をはじめ海堀あゆみ選手、宮間あや選手、大野忍選手の4人が選ばれました。

    ・今回の第6回女子ワールドカップドイツ大会優勝について、「なでしこジャパン」は、団体として初めての国民栄誉賞を受賞しました。

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    1971(昭和46)717日は、世界女性初の欧州アルプス3大北壁」制覇

    1971年の今日717日は、日本の今井通子アルピニストが、グランド・ジョラス北壁の登頂に成功しました。先のマッターホルン北壁、アイガー北壁の登頂と会わせて、世界女性初の快挙でした。

    ・この日、このときグランド・ジョラス北壁の頂上では、隊長の高橋和之登山家と結婚式を挙げました。まさに、2重の喜びの達成でした。

    ・医師であり、女性初のヨーロッパ三大北壁完登者として「ミチコ」の名を世界で不動のものとした今井通子アルピニストは、その後、チョモランマ、キリマンジャロなど世界の高峰に次々と挑戦し、制覇する姿は多くの人々を感動させました。

    ・今井通子アルピニストは、1942年東京都出身で、1966年東京女子医科大学卒業。在学中に山岳部に入部し登山を始めました。1967年女性パーティーとして欧州アルプス・マッターホルン北壁登攀に初成功。1969年アイガー北壁、1971年グランド・ジョラス北壁と、世界女性初の欧州三大北壁完登者となりました。

    1979年ネパールヒマラヤ・ダウラギリの山登頂成功。1985年エベレスト中国側チョモランマ峰北壁に挑み、冬季世界最高到達点を記録しました。

    ・現在も東京女子医大で診察する傍ら、東京農業大学客員教授として環境問題を研究し、さらに国内外のトレッキングツアー、講演、などをこなしています。著書は『あなたと歩く世界の名峰』(小学館)など多数。

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    1999716日は、国土交通Day」記念日

    1999(平成11)年の今日716日は、国土交通省設置法が公布されたことを記念して「国土交通Dayが制定されました。

    「国土交通Day」は、日本の国土交通行政に関する意義・目的、重要性を広く国民に周知することを目的とした記念日です。

    ・「国土交通Day」は、国土交通省の発足した2001(平成13)年から記念日として数々のイベントが実施されています。この日の716日前後には国土交通省関係施設の見学会、国営公園の無料開放の実施に併せて各種の広報啓発活動が行われています。

    ・国土建設記念日は、旧建設省が実施していた記念日で、1948(昭和23)年に建設院が建設省に昇格した日を記念して710日でした。

    国土交通省は、「国土の総合的かつ体系的な利用、開発及び保全、そのための社会資本の整合的な整備、交通政策の推進、気象業務の健全な発達並びに海上の安全及び治安の確保を図ること」を任務とする国の行政機関です。

    ・国土交通省は、2001年の中央省庁再編により、運輸省、建設省、国土庁、北海道開発庁を統合して設置されました。外局として観光庁、気象庁、運輸安全委員会、海上保安庁が置かれています。

    ・国土交通省の本庁の屋上には、緑でいっぱいの庭園があります。これは、2000(平成12)年からつくられた庭園で、都会のヒートアイランド現象の緩和や良好な自然環境を作り出す目的で設置されました。この国土交通省の試みは、色々な公共移設や会社でも行われています。少しずつでも緑が増えることは、良いことですね。

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    1868715日は、大阪港開港記念日」

    1868年の今日715日は、大阪港開港記念日です。安治川の河口に開港されたことを記念して制定されました。大阪港といえば、大阪府大阪市にある日本を代表する港湾でスーパー中枢港湾の指定を受けている国際戦略港湾です。

    1868年(慶応4年)に開港して以来、1939年(昭和14年)には取り扱い貨物量日本一の港として栄え、現在では物流のほか、ショッピングやレジャー施設ができ、大型クルーズ船も続々と入港する港に発展してきた大阪港が、2018年で開港150年を迎えています。

    ・そもそも、大阪港の歴史は1400年前までさかのぼるとされています。それまで国際港として栄えていた難波津や住吉津といった海港は淀川が運ぶ土砂の堆積で衰退してしまいました。そこで、安治川上流の川口波止場に運上所をつくり、大阪港として開港しました。

    ・しかし、安治川も洪水のたびに土砂がたまってしまい、大型船は沖で小さな船に貨物を積みかえて、港に運ぶ必要がありました。そこで安治川河口に新しい大阪港をつくろうとなり、1897年に築港工事を開始して、約30年もの時間をかけて完成されました。

    ・その後の大阪港は、日本一の港として繁栄し、フェリーターミナルや客船ターミナル、鉄道や鉄橋などをつくり、いくつもの働きを兼ねた現在のような新しい港に変わっています。

    ・現在の大阪市では、大阪港を通して海や港へより親しんでもらおうと、「大阪港みなとまつり」を毎年開催しています。

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    1961714日は、検疫記念日」

    1961(昭和36)年714日に、厚生労働省と日本検疫衛生協会が制定した記念日です。

    ・検疫記念日は、1879(明治12)年714日に日本初の伝染病予防の法令である「海港虎列刺(コレラ)伝染予防規則」が公布されたことに由来しています。そして検疫の重要さを多くの人に知ってもらうために制定されました。

    1879年と1886年には、日本中で、コレラで10万人を超える死者が出ました。そのため、コレラの予防には、国内に菌が入らないこととされ、「海港検疫」が行われるようになりました。

    ・その後、これら以外の伝染病や動物に感染する病気が国内に入ることを予防のために、「伝染病予防法」や「海港検疫法」、「航空検疫規則」などの法が作られ、現在では、「検疫法」に基づいて港や空港での検疫が行われています。

    ・全国の主要な海港や空港などに設置されている検疫所では、検疫法に基づき、日本に常在しない感染症の病原体が海外からが船舶又は航空機を介して国内に侵入することを防止するため、海外からの来航者について検査等を行い、また、感染症の媒介動物である蚊やネズミなどの調査や必要に応じて駆除、消毒を行っています。

    ・この日から、1週間は、海の衛生週間として、防疫の大切さを知らしめる行事などが、行われます。

    ・横浜市金沢区長浜には、野口英世博士ゆかりの細菌検査室があります。細菌検査室は検疫所の施設の一つとして1895年に建設され、野口博士が勤務していた当時が偲ばれます。時は流れて1997年に細菌検査室や長浜ホールを含めた一帯が野口記念公園として開園されています。

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    1886713日は、日本標準時刻制定」発表日

    1886(明治19)年712日に、兵庫県明石市を通る東経135度の子午線を日本標準時と定め、全国の時間統一が決定しました。

    1888(明治21)年の11日より、これを実施するとの勅令が出され、翌日の713日に国民に知らされました。

    ・日本の時刻制度は、江戸時代までは、各地の地方時で行われていましたが、明治時代になって明石時刻を、日本標準時として定めました。これによって兵庫県明石市の正午が全国どこでも正午となりました。

    1884年のアメリカのワシントンで開催された国際子午線会議の決定を受けて、地球は、1360度を24時間で回るので、経度15度おきに、1時間ずつの誤差が生じますので、15度の9倍の東経135度の子午線が兵庫県明石市を通る東経135度の子午線を日本標準時と定め、全国の時間統一が決定しました。

    ・国際子午線会議では、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を、世界中の経度と時刻の基準とする本初子午線として、そこから経度が15度へだたるごとに1時間ずつ時差を持つ時刻を、世界の各国が使用することを決議したのです。これを経帯時といい、世界中に24の経帯時ができることになりました。

    ・明石の子午線標識は、明石市立天文科学館北にあるトンボの標識ですが、明石市教育委員会が御大典記念事業として、子午線標識を正確な位置を建てかえることを計画し、1930(昭和5)年に建造されました。

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    1984712日は、ひかわ銅剣の日」

    1984(昭和59)712日は、島根県出雲市斐川町の荒神谷遺跡から弥生時代の銅剣が発見され、その数は、全国の出土品のうち最多の358本に達しました。

    ・その全てが、「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されたことから、斐川町が、記念日に制定しました。記念日の名称は、全国から公募で選ばれました。

    ・この遺跡では、銅矛、銅鐸も発見されました。また遺跡から西へ3キロメートルの山あいから同時代の集落跡も発見されています。

    ・これらの出土した青銅器は、祭祀に使われたものと見られています。これらの出土品は、現在全て「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されています。

    ・この間のいきさつは、1983(昭和58)年の広域農道の出雲ロマン街道建設にともなう遺跡調査が行われた際に調査員が田んぼのあぜ道で古墳時代の土器の破片を発見したことから付近の発掘が開始されました。

    ・この遺跡の南側に「三宝荒神」が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌1984(昭和59)年に谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣が出土しました。

    ・荒神谷遺跡で大量の銅剣、それに銅矛や銅鐸までもが見つかったことから、出雲地方にも強い勢力をもつ国があったと考えられるようになりました。

    ・銅剣は1985(昭和60)年、銅鐸・銅矛は1987(昭和62)年に国の重要文化財に指定されていましたが、1998(平成10)年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されました。

    ・このことから、大量の銅剣が発見された712日を記念して、斐川町では2000(平成12)年から、この日を「ひかわ銅剣の日」と定めました。

    ・遺跡自体は1987(昭和62)年に国の史跡に指定されていましたが、斐川町が中心となり1995(平成7)年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、2005(平成17)年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われています。現在、出土品は文化庁が所蔵し、2007(平成19)年3月に出雲市大社町に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に保管され、常設展示されています。

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    1893711日は、真珠記念日」制定

    1893(明治26)711日は、御木本幸吉夫妻、三重県鳥羽の英虞湾で、世界で初めて真珠の養殖に成功したことを記念して、記念日を制定しました。

    ・昔から全世界の女性の心をつかみ続ける真珠。それまで成功したことがなかった真珠の養殖に世界で初めて成功し、一部の富裕層しか身につけることのできなかった真珠がより身近な装飾品となりました。

    ・御木本幸吉夫妻が真珠の養殖に成功したのは、箕作佳吉動物学者の協力を得て、夫婦で英虞湾の無人島で養殖場を始めました。そして、養殖を始めてから3年目の1893(明治26)年養殖所を開設してから3年目のことでした。

    ・御木本幸吉夫妻の苦労の末に、半円形ながら養殖真珠が世界で初めて獲れました。円形の真珠は、1905年に初めて完成しました。

    ・特許を取得して、以来、世界各国に輸出して、「世界の真珠王」と言われました。

    それまでは、高価な天然の真珠しかなかったので、養殖で、真珠の量産体制は、画期的なことでした。

    ・現在では、アコヤ貝の体内に、外とう膜の小片とともに貝殻で作った核を埋め込み、核のまわりに真珠質を分泌させて作って真珠を作っています。

    ・御木本幸吉夫妻が真珠の養殖を行った伊勢志摩では20165月にサミットが開催され、世界の主要国の首脳が集まって国際問題について意見交換を行いました。開催地の選定に際しては、日本の美しい自然をアピールできるという点も考慮されました。

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    1948710日は、「国土建設記念日」制定

    1948(昭和23)710日は、建設院が省に昇格して建設省となったことを記念して、1949年に記念日として制定されました。

    ・国土交通省は、国土の総合的かつ体系的な利用、開発および保全、そのための社会資本の整合的な整備、交通政策の推進、気象業務の発展並びに海上の安全および治安の確保などを担う官庁です。

    ・中央省庁等改革の一環として、2001(平成13)年16日に、旧4省庁(北海道開発庁、国土庁、運輸及び建設省)を母体として設置されました。より良い行政サービスの提供を目指し、総合的な国土交通政策を展開していくことを目的としています。記念日も710日から716日に移行しました。

    ・「国土交通Day」記念日は、国土交通省の発足した2001(平成13)年から実施されています。これは国土交通省設置法が公布された日(1999(平成11)年716日)を記念しています。

    ・国土建設の大切さと関心を高めるために、毎年「国土建設週間」710日から716日が設けられ、国土建設に労のあった関係者の表彰や水防演習、建設機械のパレードなどがおこなわれます。週間中の1日は、河川美化運動にあてられています。

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    195579日は、「科学者が平和をアピール」

    1955(昭和30)79日は、イギリスのバートランド・ラッセル哲学者やアメリカ在中のアインシュタイン物理学者、日本の湯川秀樹物理学者ら11人の世界的学者が、「核による人類絶滅の危機アピール」に署名し、核保有国6か国に、核兵器禁止を訴えました。

    1954年のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験の成功に衝撃を受けたバートランド・ラッセル哲学者は、科学者が国際会議を開いて核兵器の危険性を検討して、世界に訴えるべきだと考えて、アインシュタイン物理学者に相談して、その同意を得て、早速草案を書き上げて、アインシュタイン物理学者に送りました。

    1955年のこの日、日本の湯川秀樹物理学者などノーベル賞を受賞した11名の科学者が署名したこの宣言書は、バートランド・ラッセル哲学者らによって、イギリスのロンドンでの記者会見で発表されました。

    ・この宣言の直前に亡くなったアインシュタイン物理学者が「人類に放った遺言状」となりました。

    ・この宣言は、「国家の一員としてではなくヒトという種の一員として」に立場で、核兵器による人類絶滅の危機克服のため、各国政府に核兵器の廃棄と,あらゆる紛争解決のための平和的手段を見出すべきことを説きました。

    1957年以来続けられている科学者達のパグウォッシュ会議の「科学と国際問題に関する会議」は、この宣言から生まれました。

    ・パグウォッシュ会議、正式には「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」は、全ての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議です。

    ・「次に起こる戦争は勝利に終わるのではなく、相互の全滅に終わる。」は、バートランド・ラッセル哲学者の名言です。

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    186978日は、「外務省記念日」

    1869(明治2)78日は、維新政府は、諸外国との折衝が急務であったため、外務省を創設しました。1959(昭和34)年からは、この日を記念日にしています。

    ・外務省は、改称せずに現存する日本最古の行政機関です。外務省では旧暦の78日をもって外務省記念日としています。  

    ・最初の日本大使館は、1905122日に在イギリス公使館が昇格して大使館となったのが最初です。初代駐英大使に任命されたのは林董 駐英大使です。

    ・外務省敷地内に建てられている陸奥宗光外相の像の建立の由来は、日清戦争や条約改正といった難局に、外相として立ち向かった陸奥宗光 外相の業績を記念して、各界の基金により1907年に外務省内に銅像が建立されました。その後、同外相の没後70周年に当たる1966(昭和41)年に新たに再建されました。

    ・外務省は、毎年の外務省記念日に、外交に貢献のあった方々への外務大臣表彰式や永年勤続退職の職員に対する表彰を実施してきていますが、これらに加え、毎年の外務省記念日の機会に、職員一同がこの「顕彰の像」に込められた意義を再確認するとともに、様々な労苦を捧げ亡くなられた方々に対する敬意をこの像の前で新たにしていきたいという意思の下、職員一同で黙祷を捧げています。

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    199677日は、「川の日」

    1996(平成8)77日は、国土交通省が「川の日」を記念日として制定しました。

    ・国土交通省が、7月7日を「川の日」と制定した理由は以下の三つです。

     (一) 7月7日は七夕伝説の「天の川」のイメージがあること

     (二) 7月が河川愛護月間であること

     (三) 季節的に水に親しみやすいこと

    ・国土交通省が、「川の日」を定めた趣旨は、以下の通りです。

     (一) 近年、都市の発展、治水事業の発展などを契機に、希薄化した人と河川との関係を見直し、河川に対する人々の関心を取り戻すこと

     (二)地域の良好な環境づくりなどについて流域の住民・自治体が一緒になって考え、取り組む、といった地域の活動を支援すること

    ・国土交通省が、実施する「川の日」のおもな活動は、次の通りです。

    (一)地方公共団体、川に関するNPO等に幅広く「川の日を」契機とした河川に関する諸活動の推進を呼びかける。

    (二)河川と国民との関わりとその歴史、河川の持つ魅力等について広く国民の理解と関心を深めるような各種行事、活動を実施する。

    ・国土交通省は、河川と国民との関わりとその歴史、河川の持つ魅力等について、広く国民の理解と関心を深めることにより、河川行政が地域住民等との連携・協調の下で展開されることを目的として、旧河川法及び砂防法の制定により確立された近代河川制度の100周年目にあたる平成8年度から77日を「川の日」として制定しました。

     

    ・牽牛と織姫が一年に一度、天の川で会える七夕を「川の日」としました。なかなかロマンティクな日ですね。

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    191276日は、「日本オリンピック初参加」

    1912(明治45)76日の第5回スウェーデンのストックホルムオリンピックの開会式に日本は、初参加しました。

    ・参加選手は28か国女性48名を含む2408名でした。14競技102種目が行われました。

    ・開会式は76日に行われましたが、この大会で日本がアジアの国で初めてオリンピックに参加しました。共に陸上競技で短距離の三島弥彦選手とマラソンの金栗四三選手の2名が出場しました。

    ・この大会が初のオリンピック参加となった日本でしたが、日本の入場行進時のプラカード表記がオリンピック史上、唯一「NIPPON」でした。以降のオリンピックは全ての大会で「JAPAN」という表記が使われています。

    1967321日、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催されましたが、開催に当たって当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、陸上競技の男子マラソンにおいて金栗四三選手が、棄権の意思が運営者側に届いていなかったため競技中に失踪し行方不明となっていることに気付きました。

     

    ・このため、オリンピック委員会は金栗選手を記念式典でゴールさせることにし、金栗選手を式典に招待しました。

     

    ・招待を受けた金栗選手はストックホルムへ行き、競技場内に用意されたゴールテープを切りました。

     

    ・ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは548か月65時間32203、これをもちまして第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました。」とのアナウンスが響きました。

     

    ・これは近代オリンピック史上最も長時間のマラソン競技記録であり、五輪全日程終了までの期間としても史上最長でした。今後も破られる事がないであろう不滅の金字塔となっており、金栗選手はゴール後のスピーチで「ここまで、長い道のりでした。この間に妻をめとり、子供6人と孫10人ができました。」とコメントしています。

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    197875日は、「農林水産省発足記念日」

    1978(昭和53)年75日は、従来の農林省を農林水産省と改称したことによります。その後、大規模な省庁再編があったものの、現在も同省の名前は農林水産省のままです。

    農林水産省設置法第3条によりますと、農林水産省は、「食料の安定供給の確保、農林水産業の発展、農林漁業者の福祉の増進、農山漁村及び中山間地域等の振興、農業の多面にわたる機能の発揮、森林の保続培養及び森林生産力の増進並びに水産資源の適切な保存及び管理を図ること」を任務とします。

    ・設置当初は、農林省という名称でしたが、200海里水域問題など種々の問題で水産行政の重要性が高まりつつあったため、197875日に現在の省名に改められました。

    ・旧来の日本の農業は、関税や補助金による保護や農作物の価格保証によって、国の農業政策に沿う穀物を生産するだけで一定の経営が保証されていました。しかしこのような農業政策撤廃を迫る国際的圧力が強まり、日本の世界貿易機関の加盟による農産物の貿易自由化などから、これらの保護は徐々に減り、日本の農業も国際市場における穀物価格の動向に直接影響を受けるようになってきています。

    ・最近では、海外での日本食ブームによって、2013年頃から堅調な農作物やその加工品の海外輸出が毎年増加しています。

    ・そして、令和元年5月に開催されたG20新潟農業大臣会合において、新潟市立高志中等教育学校が「持続可能な農業・食料分野に向けての提案」を行い、会合成功に大きく貢献しました。今後は、官民の協働がより、必要になると思われます。

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    177674日は、「アメリカ独立記念日」

    177674日は、アメリカ合衆国が本国の英国からの自由と独立を果たしました。

    ・当日、フィラデルフィア独立会堂において、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムスらによって、有名な「生命、自由、幸福の追求」を謳った独立宣言書が発表され、アメリカ合衆国が誕生しました。

     

    ・アメリカ合衆国の赤と白の13本の線は、独立当時の13州を意味し、星の数は、現在の州の数を表示しています。

     

    1773年、アメリカ合衆国での茶の販売をイギリス東インド会社に独占させるという、茶税法が、イギリスで出されました。これに反対して、アメリカ合衆国とイギリスの間で、争いが生じました。

     

    ・この事件をきっかけに、アメリカ合衆国は、13州が団結して、1775年に、アメリカ独立戦争が、イギリスとの間で発生しました。177674日は、戦いの最中で、アメリカ合衆国側が、「独立宣言」を発表した日です。

     

    ・その後に、アメリカ合衆国の独立を祝って、フランスから贈られたのが、ニューヨーク港入口にある「自由の女神像」です。

     

    ・以後、アメリカ合衆国では、この日を独立記念日として、自由を喜ぶ祝宴が、国を挙げて行われています。

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    192873日は、「初のカラーテレビ中継」

    1928(昭和3)73日は、英国のジョン・ロジー・ベアード発明家が、世界で初めてカラーテレビの中継に成功した日です。

    ・ジョン・ロジー・ベアードは、スコットランドの電気技術者・発明家です。史上初めて動く物体をテレビで遠距離放送することに成功しました。また、世界初の完全電子式カラーテレビ受像管も発明しました。

     

    1925年にロンドンのデパートで、彼が世界初の公開デモンストレーションを行ったのです。彼のデモンストレーションは、動く写真を見せるために行われた初のデモンストレーションであると言われています。彼は機能するテレビの実演を初めて行いました。

     

    ・数年後にジョン・ロジー・ベアードは世界初のカラーで映るテレビを紹介しました。

     

    ・彼のテレビ放送の成功や後のカラーテレビ開発における功績はテレビ史上重要です。2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」の投票で44位に入りました。2006年にはスコットランド史上の偉大な科学者10人に選ばれ、スコットランド国立図書館の「スコットランド科学殿堂館」に選ばれました。「ベアード(Baird)」 はイギリスでテレビのブランド名として今も使われています。

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    195172日は、「ユネスコ加盟記念日」

    1951(昭和26)72日に、日本がユネスコ(国際連合教育科学文化機関)に加盟したのを記念して設けられた日です。

     

    ・ユネスコは、教育、科学、文化を通じて、各国間の協力を促進し、世界の平和と安全に貢献することを目的として、活動を行っています。

     

    ・国際連合教育科学文化機関憲章は、第二次世界大戦後の1945(昭和20)年にロンドンで採択され、翌年に発効し、ユネスコが創設されました。

     

    ・当時、日本はまだ国際連合には加盟しておらず、日本の国連加盟は昭和31年、ユネスコは我が国の国際社会復帰の最初の場となりました。

     

    ・なお、日本の民間ユネスコ活動は、ユネスコ加盟前の1947(昭和22)年から行われており、現在も世界の民間ユネスコ活動の推進力となっています。

     

    ・講和条約を締結する前に国際機関のユネスコに日本が加盟できた背景には、仙台に端を発した世界初の草の根のユネスコ運動に関係があります。

     

    ・ユネスコ憲章に感銘を受けた当時の土居光知・東北大学教授、桑原武夫・東北大学助教授、上田康一・外務省東北終戦連絡事務局・連絡官などが仙台でユネスコ協力会を発足させたのは1947719日です。

     

    ・以来、各地にユネスコ協力会設立のうねりが起き、194711月には東京の日比谷公会堂で第1回ユネスコ運動全国大会が開催されました。民間から起こったユネスコ加盟運動は、政府、国会などにも波及し、政府・民間の協力による一大運動に盛り上がり、日本のユネスコ加盟への機運を高めていきました。

     

    ・この様な経過を経て、1951(昭和26)年72日、日本はフランスのパリでの第6回ユネスコ総会を経て、60番目の加盟国となりました。

     

    ・しかし、残念ながら、20171012日に、 米国務省は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)から脱退するとイリーナ・ボコバ事務局長に通告したと発表しました。20181231日付で正式に脱退し、その後は正式加盟国ではなく、オブザーバーとして関与していく方針だといいます。

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