今日は何の日

「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    1927(昭和2)年521は、リンドバーグ翼の日

    1927年(昭和2年)521日、アメリカのチャールズ・リンドバーグ飛行家が、愛機225馬力エンジンつきライアン単葉機「スピリット・オブ・セントルイス号」で、世界初の大西洋無着陸横断単独飛行に成功したことを、記念日としたものです。

     

    リンドバーグ飛行家は、33時間39分でニューヨークからフランスのパリ間5816キロメートルを飛行しました。

     

    1927520552分、リンドバーグ飛行家はスピリット・オブ・セントルイス号にサンドイッチ4つと水筒2本分の水、1700リットルのガソリンを積んでニューヨーク・ロングアイランドのぬかるんだルーズベルト飛行場の滑走路を離陸しました。

     

    5212221分、パリのル・ブルジェ空港に着陸し、大西洋単独無着陸飛行に世界で初めて成功しました。この時、リンドバーグ飛行家は25歳でした。

     

    ・これによりリンドバーグ飛行家は、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得ました。無着陸飛行を達成した際にル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれています。

     

    ・この愛機ライアン単葉機「スピリット・オブ・セントルイス号」は、現在、ワシントンのスミソニアン宇宙航空博物館に保存されています。

     

    ・のちにこの快挙は、映画化され、ビリー・ワイルダー監督『翼よ!あれが巴里の灯だ』ジェームズ・ステュアート主演で大ヒットとなりました。

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    1978(昭和53)年520は、成田国際空港が開港した日

    1978年(昭和53年)520日に、成田国際空港の前身である新東京国際空港として開港し、2004年(平成16年)41日、成田国際空港株式会社法が施行され、空港を管理する新東京国際空港公団が、成田国際空港株式会社に改組し、民営化に伴い正式名称を「成田国際空港」と定めました。

     

    ・しかしこの間、1966年(昭和41年)7月に千葉県成田市三里塚に空港建設が閣議決定されてから12年かかっての開港でした。当初、土地買収に伴う移転や騒音問題などにより、地元住民からの強い反発があり、反対運動が展開されました。

     

    ・また、通常の国際空港なら並行して2本ある滑走路は1本のみで開港し、この日の開港式典は、厳しい警戒の中で行われました。

     

    2004年(平成16年)41日に民営化されたのに伴い、空港の正式名称は「新東京国際空港」から「成田国際空港」に改称されました。

     

    ・一般的には「成田空港」と呼ばれることが多いですが、正式名称が新東京国際空港であった時から、所在地である成田市の名前にちなんで成田空港と呼ばれていました。

     

    ・成田空港は、現在の東京国際空港(羽田空港)の処理能力が限界に近づいたため、新しい空港を建設したものです。

     

    ・時は経ち2017年。成田国際空港では第3滑走路の建設が予定されています。

     

    ・現在成田国際空港は、国際線の発着回数と乗り入れ航空会社数が日本で一番多い、日本の表玄関です。

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    1952(昭和27)年519は、「ボクシング記念日」制定

    1952(昭和27)年519日に東京の後楽園球場の特設リンクで行われたボクシング世界フライ級タイトルマッチで、挑戦者の白井義男選手が、アメリカのチャンピオンのダド・マリノ選手に15回判定勝ちをして日本人初の16代目の世界チャンピオンに輝きました。

     

    ・これを記念して、日本プロボクシング協会が、2010(平成22)年に、この日を「ボクシングの日」に制定しました。

     

    ・白井選手は、当時30歳と遅咲きの栄光でした。しかし、敗戦で沈んでいた日本人の心に希望の灯を灯しました。敗戦からまだ数年しか経っていない日本にとっては、本当に希望の光とも言えるスポーツの大きな出来事でした。

     

    ・栄光の背後には、白井選手を見出してトレーニングを指導した名コーチのアルヴィン・カーン氏がいました。

     

    1952518日は、「世界タイトルを日本人の手に」の夢を実現した日でもあります。米国流の「打たせず打つ」の合理的なスタイルを教え込んだのも、アルヴィン・カーン氏でした。

     

    ・ボクシングは、過酷なスポーツです。一対一で相手と殴り合って勝たねばなりません。体力と技術力とともに、強い精神力が必要です。

     

    ・白井選手は、その後世界フライ級王座を4度防衛しました。当時としては、大変な偉業でした。

     

    ・なんと言っても、ボクシングを扱った映画では、シルベスタースターローンの「ロッキー」で、アカデミー賞を受賞しました。

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    1977(昭和52)年518日は、「国際博物館の日」制定

    1977(昭和52)年518日、国際博物館は、モスクワで開催された第11回大会の国際博物館会議により、この日(518)を、博物館が社会に果たす役割を啓発するため、「国際博物館の日」に制定しました。

     

    ・国際博物館会議は、1946年にフランスのパリで設立された非政府間の国際機構で、ユネスコの協力機関、国際経済社会委員会の諮問機関でもあります。

     

    ・国際博物館の事務局は、パリにあって、執行委員会と諮問委員会のほかに、世界8ブロックの団体と、114の国内委員会、31の国際委員会という大きな組織です。

     

    ・総会は、3年に1度開かれ、第25回大会は、201991日~7日に、京都で開催されます。

     

    ・日本では、毎年、この記念日前後に、全国各地で多くの博物館、美術館などが、無料となるほか、体験学習やフェスティバル等の記念行事が、開催されます。

     

    ・日本の博物館は、1951年に制定された「博物館法」によって、博物館とは、歴史、芸術、民族、産業、自然科学の資料を収集、保管、展示して、公衆の教養や娯楽に必要な事業を行い、また調査研究をする機関とされています。

     

    ・さらに、博物館とは、特定の分野に対して価値のある事物、学術資料、美術品等を購入・寄託・寄贈などの手段で収集、保存し、それらについて専属の職員が研究すると同時に、来訪者に展示の形で開示している施設です。ミュージアムと呼ぶこともあります。

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    1968(昭和43)年517日は、「世界電気通信記念日」制定

    ・国連の専門機構である国際電気通信連合ITU)の前進の万国電信連合が、1865年のこの日の発足にちなんで、1968年の517日に「世界電気通信記念日」を制定しました。

     

    ・アメリカのサミュエル・モース電気技師が、1834年電信機を発明し、1844年に最初の電信事業を始めました。電信用回線もモースによって完成し、以後、電信は急速な勢いで、世界に普及しました。

     

    ・国際電気通信連合では、世界中の国々とより早く、より正確に連絡をする手段としての電気通信の普及と理解を広めるために、この記念日を設けました。

     

    ・一般財団法人日本ITU協会でも、この日を記念して、「世界電気通信日のつどい」を開催し、国際電気通信連合等における国際標準化活動に貢献した方々を「日本ITU協会賞」として顕彰するとともに講演会等の記念行事を開催していました。

     

    ・このような主旨を踏まえ、日本ITU協会では、世界情報社会が517日に祝われることになったこの機会を捉え、従来の「電気通信日のつどい」と「国際協力の日」を統合し、「世界情報社会・電気通信日のつどい」を設け、2008516日に第1回の祝典を開きました。ここでは、国際標準化活動の分野で貢献のあった方々と国際協力の分野で貢献のあった方々を併せて「日本ITU協会賞」として顕彰しています。

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    1975(昭和50)年516日は、「日本女性隊のエベレスト登頂成功」

    1975(昭和50)516日、女性だけで編成された登山隊久野英子隊長ら13人のうち、田部井淳子副隊長は、アン・ツェリン・シェルパとともに、世界最高峰のエベレストに女性として世界で初めて登頂に成功しました。

     

    田部井淳子副隊長が初めてのエベレスト登頂を果たした当時、彼女は36歳。実は、当時すでに結婚しており、子供もいるママさん登山家でした。

     

    ・登頂ルートは22年前、英国隊のヒラリー卿とシェルパのテンジンが初登頂した通常コースの東南稜でした。

     

    ・女性だけでエベレストを目指したのは、単純な理由がありました。女性だけであれば、男性との混合チームと比べ、体力や体格に差が少ないためペース設定がしやすく、着替えやトイレ等の気兼ねもないからです。少しのミスが命とりとなる登山では、この「女性だけ」という選択が、登頂成功の大きな要因でした。

     

    ・田部井淳子登山家は、その後、女性として初めてヒマラヤ山脈にあるシシャパンマの登頂に成功。また、キリマンジャロ(タンザニア)、アコンカグア(アルゼンチン)、マッキンリー(米国)、ビンソンマシフ(南極)と各大陸の最高峰の頂上を次々に成功し、カルステンツ・ピラミッド(インドネシア)、エルブルース(ロシア)登頂によって女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となりました。

     

    ・田部井淳子氏は、エベレストのごみ問題をテーマに研究を進め、九州大大学院の博士課程を修了し、環境保全功労者として環境大臣賞を受賞しました。

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    1972(昭和47)年515日は、「沖縄本土復帰日」

    ・沖縄返還は、1972年(昭和47年)515日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたことを指します。

     

    ・日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」です。日本の法令用語としては、「沖縄の復帰」といいます。

     

    1971年(昭和46年)617日に宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」が、1972年(昭和47年)515日午前零時をもって発効し、第二次世界大戦以来、27年間アメリカの統治下にあった沖縄県が日本に復帰しました。

     

    ・日本政府は「本土並み」の復帰を目指しましたが、実際には30以上の米軍基地や弾薬庫、演習場などが残され、本土との経済格差も残る結果となりました。

     

    2012年(平成24年)に沖縄県の本土復帰40年を迎えました。これを記念して、2012515日、沖縄県宜野湾市の沖縄コンベンションセンターにおいて、政府と沖縄県の共催で「沖縄復帰40周年記念式典」が開催されました。

     

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    1796514日は、「種痘記念日」制定日

    1796(寛政8)514日、イギリスのエドワード・ジェンナー医師が初めて種痘の接種に成功したことを受けて記念日に制定されました。

     

    ・種痘は天然痘の予防接種のことで、世界中で、「不治の病」、「悪魔の病気」と恐れられてきた代表的な感染症の1つだったものの、種痘の登場によって世界で初めて撲滅に成功した感染症となりました。

     

    ジェンナー医師は、天然痘の予防において、それまで行われていた人痘接種より安全性の高い種痘法を開発しました。

     

    ジェンナー医師は、1796514日、の接種実験を行い、天然痘の免疫をつくることに成功しました。

     

    ・当時、天然痘は死亡率が高く人々に恐れられていました。牛痘にかかった牛の膿を天然痘にかかったことのない人に接種することで、この病気を予防する方法を見つけたのです。

     

    ・その後天然痘ワクチンは改良されて世界で使われ、1980年には天然痘の根絶が宣言されました。

     

    ・ジェンナー医師のこの方法は病原菌の研究から発見したものではなく、20年間にわたって観察と研究、そして実験を行い、その結果生まれたものです。この原理は、フランスのパストゥールによってワクチン療法として知られるようになり、狂犬病など他の病気にも応用されるようになりました

     

    ・ジェンナー医師は、近代免疫学の父とも呼ばれています。

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    1935513日は、アラビアのロレンス事故死

    ・トーマス・エドワード・ロレンスは、イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られています。

     

    ・ロレンスは、失意のうちにアラビアからイギリスに帰国後、1935513日に、オートバイで転倒し、意識不明のまま帰らぬ人となりました。

     

    ・ロレンスはアラブのファイサル1世とその配下のゲリラ部隊に目をつけ、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、ヒジャーズ鉄道沿線各地でゲリラ戦を戦うことを提案しました。

     

    ・第1次世界大戦(中東の戦い) シナイ及びパレスチナアラブ反乱は、第1次世界大戦当時のトルコはオスマントルコ帝国で 、ロレンスとアラブ人の部隊は、1917123日、800人ほどのトルコ軍が守る紅海沿いアル・ワジュを陥落し戦略的に重要な場所に位置するアカバを奇襲し、陥落させました。この功により、彼は少佐に昇進しています。

     

    1918年には、ロレンスは、ダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進しています。

     

    ・その後、アラブ人の反乱を支援したロレンスは、イギリス本国政府と対立し、失意のうちにアラビアを去りました。

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    1948(昭和23)年512日は、海上保安の日

    1948年(昭和23年)512日に海上保安庁が「開庁記念日」として制定しました。2000年(平成12年)512日から「海上保安の日」に改称されました。

     

    ・海上保安庁が194851日、運輸省の外局として発足し、512日、大久保武雄初代長官の手により庁舎屋上にコンパス・マークの庁旗が掲揚されました。

     

    ・創設時の旧組織はアメリカの沿岸警備隊をモデルに設立されました。

     

    ・「海上保安の日」は、海上保安庁の役割、活動をより一層理解してもらい、地域の人々に広く親しんでもらうことが目的です。

     

    ・海上保安庁は「海の警察」として海上の安全や治安の確保を図ることを任務とし、海難救助・海の交通安全の確保・防災や環境保全などを行っています。

     

    ・モットーは「正義仁愛」です。これは海上保安庁が発足した日、大久保初代長官が職員を前に「海上保安庁の精神は“正義と仁愛”である」と訓示したことによるもので、その伝統と精神が現在も受け継がれています。

     

    ・『海猿』(うみざる)は、作者佐藤秀峰氏、原案・取材小森陽一氏による日本の漫画です。この原作漫画は1999年より連載され2001年に完結したものの、翌2002年にテレビドラマ化、さらに2004年に映画化され、さらに続編も幾つか制作されました。

     

    ・漫画やテレビ、映画などで有名になった「海猿」 は、海上保安庁の潜水士のことを指す呼び名ですが、海上保安庁では、救難業務に従事する潜水士のことは、単に 「潜水士」 と呼びます。

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