今日は何の日

「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    「今日は何の日」は、今日、過去に起こった注目すべき出来事等をご案内致します。

    187282日、学制発布記念日

    ・学制発布記念日とは、1872(明治5)年82日のこの日、学制の趣旨を明記した太政官布告とともに学制が公布され、日本の近代学校制度が成立しました。

    ・当時、寺小屋等から小学校に昇格した小学校が、23,760校誕生しました。

    ・この時の教育制度は、下等小学4年、上等小学4年の「44制」でした。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指しました。学制は教育令の公布により、1879(明治12年)929日に廃止されました。

    ・教育令は、学制に比べて簡略であり、教育を地方の管理にゆだねました。 1880 12月、太政官布告をもって改正し、地方官の権限を強め、また就学義務などを強化しました。 1886年諸学校令の制定によりその効力を失いました。

    ・学校令は、1886(明治19)年に発布された学校教育に関する法令の総称をいいます。帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令および諸学校通則などで、尋常小学校4年が義務教育とされました。学校体系の基本を確立し、近代日本の教育と文化のあり方に大きな影響を与えました。

    ・学校令は、広義には第2次大戦後、1947(昭和22)年の学校教育法が公布されるまでの間に公布された学校種別の単行勅令を総称して言います。

    1947(昭和22)年の学校教育法は、現行学校制度の基本を規定した法律です。第2次世界大戦後の教育改革において、小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学校4年制の新学校体系が採用され、その基本規定として、教育基本法とともに公布され、これに基づいて戦後の新学制が成立しました。

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    197781日、水の日」

    ・水の日とは、1977(昭和52)年531日の閣議了解により水の週間と合わせて定められました。年間を通じて水の使用量が多く、水について関心が高まる8月の初日に設定されました。水資源の有限性、水の貴重さ及び水資源開発の重要性について国民の関心を高め、理解を深めるための日本の記念日です。

    ・その後、国土交通省は、2014(平成26)年に施行された水循環基本法第10条において、「水の日」は81日とするとし、国民の間に広く健全な水循環の重要性についての理解や関心を深める日として、水循環基本法が施行され、81日は、国民の間に広く健全な水循環の重要性についての理解や関心を深める日として、法律で定められた「水の日」となりました。

    ・「水の日」及び「水の週間」制定の理由は、わが国の水需要は、生活水準の向上、経済の進展等に伴って近年著しく増大してきましたが、一方、水資源の開発は次第に困難になっており、渇水時には水不足が生じることが予想される状況になっています。

    ・従って、国は、毎年81日を「水の日」とし、この日を初日とする一週間を「水の週間」として、この週間において、水資源の有限性、水の貴重さ及び水資源開発の重要性に対する関心を高め、理解を深めるための諸行事を行うことによってわが国の水問題の解決を図り、国民経済の成長と国民生活の向上に寄与することを目指しています。

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    1959731日、こだまの日」

    1959(昭和34)年731日は、特急「こだま」による狭軌道鉄道での時速163キロメートルを達成した日を記念した記念日です。

    ・「こだま」の名称は、1958年(昭和33年)、東京から大阪間の日帰り可能な電車による「ビジネス特急」新設にあたって、最終的には国鉄末期まで広く使われた「呼び名」で、一般公募によって決められたものです。

    ・東海道新幹線開業に伴う東京から大阪間在来線特急の廃止により、在来線特急としての「こだま」は1964930日に廃止され、翌日101日から新幹線の列車名として使用されています。

    1958(昭和33)年111日、東海道本線に華々しく登場したビジネス特急「こだま」は、当時先進国に負けない設備と性能を持つ特急電車を作る、という方針で設計された151系ビジネス特急電車でした。

    1959(昭和34)731160730秒。東海道線金谷から焼津間の上り線 東京起点202km付近で、当時の狭軌鉄道世界最高速度である時速163キロメートルの記録に成功しました。

    ・高速度試験に使用された編成の先頭車には、後にその功績をたたえたチャンピオンプレートが取り付けられました。

    ・結局、ビジネス特急電車の東海道線での活躍は登場から、わずか6年間でした。しかしその後は山陽・九州地区に活躍の舞台を移し、さらには性能向上改造を経て上越線、中央線、信越線などで使用されました。そして、このデザインは国鉄特急列車の基本となって日本中を駆け巡ったのです。

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    1958730日、アメリカのNASA設立の日」

    ・日本の日付の1958(昭和33)年730日は、アメリカのNASA設立の日です。アメリカの大統領の直轄機関で、本部はワシントンに置かれています。

    アメリカ航空宇宙局(NASA)は、アメリカ合衆国政府内における宇宙開発に関わる計画を担当する連邦機関です。国家航空宇宙法に基づき、先行の国家航空宇宙諮問委員会を発展的に解消する形で設立されました。

    ・アメリカ航空宇宙局(NASA)は、アメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、アポロ計画における人類初の月面着陸、スカイラブ計画における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機スペースシャトルなどを実現させました。

    ・現在は国際宇宙ステーションの運用支援、オリオン宇宙船、大型打ち上げロケット、商業乗員輸送などの開発と監督を行なっています。

    ・宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、宇宙空間の平和目的における長期間の探査です。

    ・人工衛星を使用した地球自体への探査、無人探査機を使用した太陽系の探査、進行中の冥王星探査機のような太陽系外縁部の探査、さらにはハッブル宇宙望遠鏡などを使用した、ビッグ・バンを初めとする宇宙全体への探査などが主な役割となっています。

    20062月に発表されたNASAの到達目標は、「宇宙空間の開拓、科学的発見、そして最新鋭機の開発において、常に先駆者たれ」でした。

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    1973729日、アマチュア無線の日」

    1973(昭和48)年729日は、一般社団法人日本アマチュア無線連盟が制定した記念日です。

    アマチュア無線の健全な発達と、アマチュア無線に関する科学知識の普及と向上を図ることを目的として、この記念日は制定されました。

    ・太平洋戦争によって禁止されていたアマチュア無線の再開の記念日で、毎年729日です。

    1952年(昭和27年)729日、1950年(昭和25年)に施行された電波法に基づきアマチュア局の予備免許が全国の30人に発給されました。 これを記念して1973年(昭和48年)に日本アマチュア無線連盟がこの729日をアマチュア無線の日として制定しました。

    一般社団法人日本アマチュア無線連盟は、アマチュア無線愛好家を中心として組織された非営利団体です。日本におけるアマチュア無線の健全な発展をはかり、あわせて、内外の無線科学、文化の向上と発展に寄与することを目的とし組織されています。

    ・会員は、アマチュア局を開設している者による正員(個人、もしくは社団)と、開設していないがアマチュア無線に興味を持つ個人である准員、正員と同居している家族(配偶者・親子・兄弟姉妹)であって個人でアマチュア局を開設している家族会員、連盟の趣旨に賛同し連盟の事業を援助しようとする個人・法人・団体による賛助会員に分けられます。

    ・ 無線従事者であってもアマチュア局を開局していなければ、換言すれば呼出符号(コールサイン)が無ければ正員にはなれません。

    ・ アマチュア局の免許が失効した場合には、個人は正員から准員に変更され、社団は准員にはなれず退会となります。

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    1878728日、槍ヶ岳登山記念日」

    1878(明治11)年728日は、イギリスのウィリアム・ゴーランド造幣技師が、外国人として初めて槍ヶ岳の登山に成功しました。

    ・槍ヶ岳は、飛騨山脈南部にある標高3,180mの山です。山域は中部山岳国立公園に指定されており、日本で5番目に高い山です。長野県松本市・大町市・岐阜県高山市の境界にあります。

    ・それまでは、信仰のために登っていた槍ヶ岳に、スポーツとして登るようになったのは、この時期以降のことです。ちなみに、槍ヶ岳初登頂は、修行僧の播隆上人と中田又重登山道開削者でした。

    ・ウィリアム・ゴーランド造幣技師は、明治政府がイギリスより大阪造幣局に招いた造幣技師で、日本の古墳研究の先駆者としても名高く、「日本考古学の父」と呼ばれています。さらに、「日本アルプス」の命名者としても知られています。

    ・「日本アルプス」は、本州中部、中央高地に南北に連なる飛驒・木曽・赤石山脈の総称です。1881年(明治14)イギリス人ウィリアム・ゴーランド造幣技師が飛驒山脈に対して用い、その後に、ウォルター・ウェストン宣教師が、三山脈の総称としました。また、小島烏水登山家はそれぞれに北・中央・南アルプスの名をつけました。

    ・深田久弥 登山家は、「富士山と槍ヶ岳は、日本の山を代表する2つのタイプである。一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はないだろう。」と「日本百名山」の中で記述しています。

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    1976727日、政治を考える日」

    1976(昭和51)年727日は戦後最大の疑獄事件ともいえる「ロッキード事件」により、田中角栄元総理大臣が受託収賄および外国為替・外国貿易管理法違反で逮捕されました。この日を記念して「政治を考える」という反面教師的な記念日です。

    ・アメリカの有名な航空メーカー「ロッキード社」の航空機受注をめぐり、多額な工作資金が日本政財界にばらまかれた戦後最大の汚職事件です。 1976年に明るみになり、複数の政治家が逮捕されるという事態となりました。

    ・この事件を教訓にするべく、「政治を考える日」が制定されました。政治家が何か事件を起こしてから、非難をしたところで手遅れです。

    ・今日727日「政治を考える日」は、正に反面教師的な意味を持つ記念日です。また、この事件を機会に改めて 政治を考えてみましょうという日です。

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    1945726日、ポツダム宣言の日」

    1945(昭和20)年の今日726日は、アメリカ合衆国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、中華民国の蒋介石主席の3ヵ国首脳が、日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表しました。

    ・この日は、日本に対して、第2次世界大戦に関する13条からなる無条件降伏を勧告する宣言を発令した日です。

    1945717日から82日まで、ドイツのベルリン郊外のポツダムで、アメリカ合衆国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン共産党書記長の三国首脳会議が開かれました。

    ・会議の議題は、ドイツ、東欧問題と日本の終戦問題でした。このポツダム会議の最中の726日に、「米英支三国共同宣言」いわゆるポツダム宣言が発表されました。

    ・日本に、即時無条件降伏を求めた13条の内容には、軍国主義の排除、領土の制限、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義復活の強化などに加えて、目的が達成されるまでの占領がありました。

    ・天皇制維持についての記述がなかったため、日本政府で激しい国体維持の議論が生じました。

    ・日本は、「ポツダム宣言」の黙殺を決めました。この後、米国による広島市・長崎市へ原爆投下と、ソ連の対日参戦が行われました。1945年(昭和20年)814日、日本政府はポツダム宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌815日に玉音放送によって国民に発表されました。

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    1940725日、命のビザ」発給の日

    1940(昭和15)年の725日は、リトアニアの日本領事代理の杉原千畝領事官は、当時の外務省に反してビザを発給して、約6千名の尊い命を救いました。この発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、現在世界各国で活躍しています。後年イスラエルから「諸国民の中の正義の人賞」が贈られました。

    ・第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた彼は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、19407月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給して大量の避難民を救ったことで知られています。その避難民の多くがユダヤ人系でした、「東洋のシンドラー」などとも呼ばれています。

    20001010日の河野洋平外務大臣による故杉原外交官に対す次の演説があります。生誕100年という節目のことでした

    ・「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。」

    ・杉原千畝記念館は、出身地の岐阜県加茂郡八百津町八百津にあります。今でも、数多くの外国人観光客がこの地を訪れています。また、併設の人道の丘公園では、大型のアスレチック遊具・ローラー滑り台・芝生広場などがあり、週末にはご家族連れでピクニックなどに訪れます。

    ・第二次世界大戦という人類史上類を見ない暗黒の時代に、組織人としての服務規律と人命救助の間で葛藤しながらも、最終的には個人としての良心を保ち行動し得た杉原外交官。今なお世界各地で偏見や人種差別に基づく戦争が絶えない状況に鑑みると、その行いや背景となる思いは、人類が未来永劫にわたって希求すべき人種・民族を超えた人道主義・博愛精神の稀有かつ勇気ある表出例として、世界が共有し次世代に語り継ぐべき真正無二の行いであります。

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    1911724日、マチュピチュ発見の日」

    1911年の今日724日は、インカ帝国の空中都市「マチュピチュ」が発見されました日です。

    ・アメリカのハイラム・ビンガム3世探検家は、1911724日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見しました。

    ・彼は、1915年までに3回の発掘を行いました。彼はマチュピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになりました。

    ・「マチュピチュ」の遺跡は、高い山の上にあって、下からは、その存在を確認できません。

    ・そのために、スペイン人に荒らされることなく、当時の姿を残すことが出来ました。

    ・マチュピチュは、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根、標高2,430mにあります。

    ・当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400mに位置する。標高2,430mのマチュピチュの遺跡から、さらに約千メートル高い場所にその首都がありました。現在のクスコはペルー有数の都市でその市街地は世界遺産です。

    ・なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡しましたが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係や役割分担など、その理由はまだ明確に分かっていません。

    ・野内与吉氏は、福島県大玉村出身で、ペルーのマチュピチュ村の初代村長でした

    1895年裕福な農家の家に生まれ、1917年、21歳のときにゴム景気で湧くペルーに移民し、1923年よりペルー国鉄で勤務し、マチュピチュまでの鉄道建設に携わったのを契機にマチュピチュに移住しました。1939年にマチュピチュ地区の行政最高責任者に就任、1948年から2年間、村長を務め、1969年に現地で亡くなるまで、村初のホテル「ホテル・ノウチ」を開業したり、水力発電所を作ったりするなど村の発展に尽力しました。

    2015年、マチュピチュ村は、彼の故郷、大玉村と同村にとって初となる友好都市協定を締結しました。

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